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そもさんせっぱちょーちょーはっし

僕はすでにこの漫画最新刊は買いました一覧

その上で完結していない漫画作品群。
2014/10/22

把握

作品名
少女ファイト 11
のりりん 09
なにかもちがってますか 04
グラゼニ 15
『レッド』 08
『日常』 09
ハイスコアガール 05
クロコーチ 06
『王様達のヴァイキング』 05
『ACCA 13区監察課』 02
『デモクラティア』 02
『冒険エレキテ島』 01
『續 さすらいエマノン -
『Sk8r's』 01
『アド・アストラ』 03
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』 01
夕空のクライフイズム 02
『インベスターZ』 05
『商人道』 01
宝石の国 03
『ナナのリテラシー 02

すでに把握できてない

作品名
『かもめチャンス』 わかんねーけど完結した
もやしもん 13/完結した

非協力が罪なのではない -心理的安全性、その前提-

を一月ほど前に読み終えていた。 ここで語られる「心理的安全性」とは「凡人ズチームで生産性を高めるための基礎たり得る哲学、方法論」というような内容である。 「心理的安全性」については、

などを参考にされたし。非常にいい考えであり建設的な内容であると思う。

しかしながら「とはいえそう言われてもねえ」という状況は、日本においては当然のように起こり得ると考えている。 僕個人は「本書のうわべの内容だけで、どの職場においても適用できる内容とは考えていない」ということであり、本書を読んで考えたのは、「チーム」よりもまずはじめに雇用者と被雇用者という労使関係の現実がある、ということだ。

被雇用者は雇用者と労働契約を結び、はじめて「チーム」に所属することとなる。 つまりは「チーム」に先んじて「労働契約」があるわけで、これは「協力」に先んじて「雇用者被雇用者間のビジネス」があるということだ。究極的な話「雇用契約に明示された『協力』は義務である」わけだが、「そうでなければ義務ではない」ということは十分主張可能である。

上記が真であれば「非協力的行動と、協力的行動のメリット/デメリットの比較」を「被雇用者」が自身の収支と検討するのは当然の流れであると言える。そうすると「非協力的行動を奨励する経済的な理由がチームに(暗黙的であれ)存在する」ということが成り立てば、「被雇用者であるチームメンバーは非協力的行動をとる」わけである。経済的には。「本書で言う『心理的安全性』を適用する場合には、雇用契約内容が被雇用者にとって充分であること」は必要条件なのだと思う。言い換えれば「本書の出発点が、御社の現況とイコールではないかもしれないこと」をもう少し考えなければならない。「心理的安全性」には当然「チームメンバーである被雇用者それぞれの待遇」が含まれる。この点は無視してはならない。

また「協力だ、心理的安全性だ」というスローガンが響かないチームにおいて、「心理的安全性」をバズワードとして持ち出してもほとんど意味が無いだろう。なぜならばそのようなチームにおいて語られる「協力」は「指令であり命令」だからだ。「協力しないことは罪」なチームにもまた「心理的安全性」は存在しないし根付かない。

実際そのあたりは本書の行間に書かれているような内容であると思えるが、「心理的安全性」という言葉だけが強く浸透することを懸念し、掲題はそのような理由でつけた。スローガン的に申し上げれば「非協力が罪なのではなく、協力してもらうよう作用させられないことが罪」なのである。あなたのチームにおいて「協力をした者」「協力を促した者」に対してインセンティブ(これは金銭でなくてもいい)を発生させる準備はありますか?「収支が合わなければ協力しないこと」はビジネス的合理性において全く正しいのだから、上記準備を備えてから「心理的安全性」を語るべきだ。

「カーゴ・カルト」所感、または「体裁カルト」について考えた

消えたプログラマの残したものは - megamouthの葬列 を読んだ。このエントリで「カーゴ・カルト」なる語を知った。 あわせて以下を読むことで「カーゴ・カルト」の概要をなんとなく理解した。

またあわせてWeb上の他の記事を読んだ。

さらには言及している作品として挙げられていた以下作品をkindleで購入して読んだ。

ここまで行い感じたことを書く。

ナンシー・マクダウェルの『「カーゴ・カルト」概念に対する批判』について納得する

カーゴ・カルト - Wikipedia の項目部しか読めていないのだが、その中で理解した範囲で言えばこの批判はある種の正しさを帯びているよう思えた。というのも、

ある民族において、現状理解できない事柄を、現状理解できている物質、精神、文化で解決しようとした場合に、 『カーゴ・カルト』と呼ばれる事象に落ち着くのは人類としてよくあるパターンのひとつである。 なので珍しがり特筆して名付けることは問題(ないしは西洋文明知識人的な傲慢)ではないか

という問いかけなのだと感じた。 この指摘を発展させると「〜という信仰、行動形態を『カーゴ・カルト』と名付けることもまた『○○・カルト』的であり、それは『カーゴ・カルト』と名付けられるもととなった「事象を知識制約内で理解すること」と同じ構造を持っているのではないか、という気持ちになった。この点においてナンシー・マクダウェル氏の批判に納得した。ただナンシー・マクダウェル氏が実在の人物か、この批判を言及した原典はなにか、という確認はとれていないのでここまでにしたい。

「体裁カルト」というのは存在する、とも言えそうな気がする

情報商材まとめサイトに端を発するデマ記事、または昨今話題の「〜と言われています」的商業でありながらも文責放棄記事が、一定のPVを稼いだりするのは、言ってみれば「体裁カルト」によるものと考えてしまっていいのではないか、という気持ちになってきた。以下にあげるのは「体裁カルト的判断から、無思考で受け入れられてしまっている現状がありそうな事柄」である。

  • Webサイトに記載されている利用規約と、その法的妥当性について
  • 住宅賃貸契約における特約事項と、その法的妥当性について
  • 企業における雇用者被雇用者間の労働契約内容と、その基盤となる労働法(これは法の存在意義も含め)との法的妥当性について
  • 内容証明と、その書面内の法的効力正当性について
  • 「消防署の方から来ました」営業風官名詐称的所属明示と、その身分担保が十分か否かについて

これらはおおよそ僕個人が嫌う「言わない嘘の結果もたらされるもの」という印象である。狭い範囲内での限定的正しさしか持たない(もしくは全く持たない)にも関わらず、まるで全体適用可能なような主張に見えるのは、それは「単純に体裁が整っているから」というだけなのではないか。

「よいお年を」問題

「よいお年を」という年末の挨拶を、僕は「(残り少ない今年を)ご家族でよりよくお過ごしください」 という意味で理解していたが一般的には「よりよい新年をお迎えください」という意味だった。
「よいお年」とは来年のことであり、今年のことではなかったのである。有終の美という感覚でいたのだが、初めよければ全て良しということなのだろうか。

半分の水が入ったコップ問題

「半分の水が入ったコップ」の話で主旨主題とされるのは「リフレーミングにより広い視野を取り戻し選択肢を増やす」ことなんだけど、それでも僕は以下のように考えてこのリフレーミング的な行為自体を問題視している。

  1. 小さい問題 どう表現しようが絶対量は変わっていない
  2. 大きい問題 そもそもこの水は、特別大事な水なんでしたっけ

1. について

「半分しかない」「半分もある」どちらにせよ、例えばこれがコップでなく500mlのペットボトルであれば「250mlの水がある」というだけである。「しかない」と言おうが「もある」と言おうが量は増えない。しかしこれ自体が比喩なのでそんなこと言ったら空気読めよとなる。なので「可能性を模索することを諦めていませんか」という話なのだということを踏まえた上で言うならば「可能性踏まえるんだったら楽観的にも悲観的にもなったらダメで、ただ250mlあることを主観を込めずに絶対的な認識とすることのほうが大事なのでは」と投げかけたい。

「いまこの状態でできることなんでしたっけ?」と問われれば「建設的にできること」を回答するのが大人である。 だとしてその問いには「引き続き頑張っていきましょう」という答えを引き出すためのリフレーミングを用いよという文脈が潜められているので、それ自体単なるソーシャルエンジニアリングであり詐術であるとは言えないか。 何を恐れているかといえば「勇気ある撤退」「それはやらないという意思決定」などの選択肢をなくす行為なのではないかということ。この手のリフレーミングを持ち出すのが外部の人間ならば疑え、というのがまずひとつめ(自身の意思決定において自己責任でやるあたりがちょうどよいと思える)。

2. について

閑話休題。 前提としての「半分の水が入ったコップ」なんだけど、この手の「設問されたら答えなくてはならない」という強迫観念こそをもう少し考えたい。というか「え、その水以外を飲めばいいじゃん」って言おう。「おれ日中はコーラしか飲まないし」って。「あろうがなかろうが飲まない、米も研がなければ洗濯もしないなら、その水べつにいらない」ということを言おうと感じる。考えるべきは「どう回答してよりよい採点を得るか」というよりは「そもそもこの質問に解を出すか」ということであり裏返って「解を出すに値する問を、この有限時間の中で見つけ出さなくてはならない」ということなのかと思える。

なんのことを言っているか

Amazon.co.jp: Kindle Unlimitedのことである。僕自身もNetflixやらHuluやらに(それなりに視聴してるとはいえ)延々と金を払い続けているから他人事ではないのだが。 あと別の見方をすると「喩え話を批判するなんて、どんだけ無駄な行いなんだ」ということでもある。自戒にご期待ください。

おまけ. この話のルーツをさらっとたどったら検索トップに出てきたページ。別の文脈で引用されているドラッカーの言葉があった。

『事実の前借り』またはたったひとつの僕が許せる「言わない嘘」のこと

しびれる話を聞いた時、人は勇気を与えられたような気持ちになる。登場人物に信頼を寄せる場合はなおさらだ。自分が信じていたことの裏が取れたようで、自身の審美眼の正当性を担保され誇らしい気持ちになるからだ。

僕は「聞かれなかったから答えない」という「言わない嘘」ってやつが嫌いだ。なんというか誠実さにかける。対象に不利益を与える恐れがあるにも関わらず、自身にとって不利な証言を避けることを目的としているからだ。それが長い目で見た場合に対象との関係性を壊す可能性を考慮していない。いやそもそも対象と長い関係性を持つことを当初から考慮していないからかもしれない。だから人を「カタにはめてやろう」というようなスマートなやり口「言わない嘘」が嫌いだ。

閑話休題。しびれた話のことをしよう。
ある人X氏が交渉する立場にいた。AとBと自身であるX氏という三方がいて、X氏自身にとって最も有利になるよう交渉を進めるよう「画策」していた。X氏はこう切り出していた。Aに対しては「Bのため○○が必要」、Bに対しては「Aのため○○が必要」と。実際には「AもBも○○を理解すらしていない」にもかかわらず。その通り、これは明らかな「言わない嘘」だし、そもそも「ただの嘘」だ。

「なんだ詐術か」

違う、そうじゃないんだ。先述した「画策」というのはもしかするとこれは正確ではないかもしれない。これは「画策」ですらなかったかもしれない話なんだ。続けよう。X氏の話をする。彼は頭が切れる。だがおっちょこちょいでそそっかしい。なるほど「天は二物を与えず」か。ただ天はもう一つ彼に授けた。「信念」だ。X氏は見通していた。実際に「AにもBにも○○は必要だった」のだ。ただその説明と説得という重要な手続きをX氏は大きくスキップした。
「時間がなかったのか」ちがう。「自身に有利なように進めたかっただけなのでは」それもあるけど瑣末な問題だとわかった。答えはこうだった。「言ってもわからない人に説明してもしょうがない」なるほど天は三物目も与えるのか。彼は「傲慢」でもあった。
人はどのような時に傲慢になれるのか。思うに「自身を誰よりも高く評価し、絶対なる自信を持っている時」だと考える。正確で客観的な担保もなく、ただ「己が正しい」という場合に、謙虚さが失われれば人は誰しも傲慢になれる。へえなるほど。そうすると「信念」が彼X氏自身を「傲慢」に見せたんだきっと。X氏は誰も騙してない。実際に「AにもBにも○○は必要だった」のだから。「そうなるだろうという信念」でX氏は傲慢に見えただけなんだ。これを僕は「事実の前借り」と称して「言わない嘘」と別格に扱うよう心に刻んだ。「騙した事実は変わらない」のだけど「その裏に紛うことなき信念がある」のなら、僕はそういうのに弱いのだ。なにより(少なくとも現時点では)AもBも幸せにしているしね。

満員電車の生態系

上記のようなことがあった。
うまく説明する方法がなかったので.pptをでっちあげた。

実際当事者が本当に不快に思ったかなんてわからないのであり、
確かめようもなく僕の妄想の範囲を超えないのではある。
「傍から見た僕が不快に思った」という過剰さがここにあるだけなのかもしれない。
ただなんとなく僕の中にあるメランコリー親和型的な部分を突かれて、
胸がぎゅっとしたという話である。