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そもさんせっぱちょーちょーはっし

『ドグラ・マグラ』九州帝国大学教授、若林・正木両名のモチーフについての一考察

底本
夢野久作

エドガー・アラン・ポー

描写1. 若林鏡太郎(九州帝国大学法医学教授)

 私の眼の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子が一個据えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝くばかりに突立っているのであった。
 それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と一と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額の斜面と、軍艦の舳先を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套を着て、その間から揺らめく白金色(プラチナいろ)の逞ましい時計の鎖の前に、細長い、蒼白い、毛ムクジャラの指を揉み合わせつつ、婦人用かと思われる華奢な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化った生物のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、吾れ知らずその方向に向き直って座り直した。

描写2. 正木敬之(九州帝国大学精神病学教授)

 私のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大卓子(テーブル)の向うの肘掛廻転椅子の上に、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨じみた男が、私と向い合いになって、チョコナンと座っている。
 それは頭をクルクル坊主に刈った……眉毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日に焦けた五十恰好の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火を点けたばかりの葉巻をギュッと啣え込んで、両腕を高々と胸の上に組んで反りかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイに剥き出してクワッと笑った。

本作品でアンポンタン・ポカンな呉一郎を惑わす二名の教授であるが、
この教授陣をイニシャルから

若林の< W > ←→ 正木の< M >

相互補完的関係である、とする説は『夢野久作の世界』などで見られた。

正木・若林は久作が表面上規定するほどに対蹠的であろうか。いや、この設問はうまくない。たしかに対蹠的であるが、ポジとネガ、つまりは相互補完的な意味において対蹠的なのである。正木はしばしばMであり、若林はしばしばWである。悪い冗談のようであるが(悪い冗談でない久作文学はない)、Mを倒立すればW、WをかえせばMではないのか。
(『夢野久作の世界』第三部 新たなる視座からの接近「循環的腐乱世界の構造」)

それとともに小説の構成自体もまた、一種の反復あるいは同心円のような構成になっている(略)なるほど、この二人は対照的に、一方は「六尺を超える巨人(おおおとこ)」であり、他方は「骸骨そっくりの小男」である。しかし、「記憶の鏡に」映して真実を語っている(はずの)正木の話のなかで、かれらが〈M〉と〈W〉として語られるとき、この二文字のいわば(上下に関する)鏡像的対称性ゆえにこの両者の判別をつけることは不可能なのだ。
(『物語の迷宮』第七章 ペダントリーの饗宴―あるいは文学機械としての博識「『ドグラ・マグラ』-円環の迷路」


学生時分には「この解釈、なんか納得いかねえんだよなあ」という気持ちであった。
確かに二人は目的を同じくして「アンポンタン・ポカン」青年を「呉一郎」へと認知させようと謀略(としておく)を巡らせているわけで『相互補完的』はうなずける部分はあるけれど、そもそも「若林でかいのに正木ちいせーじゃん」というのが僕の感想だった。
ラージWはスモールmにはならないんだよなあ。

で、この説を補うためにモチーフをさがすことにしたのが卒業論文作成当時のお話である。
ただ「おそらくこれだろう」というのは見つけられたのだけど、その証拠みたいなものが全く見つからないので、
「いっそブログエントリにしたら誰か探してくれるんじゃあるまいか」という期待を込めて、
トンデモ上等で一エントリをでっちあげてみました。


エドガー・アラン・ポーに『スフィンクス』という、とても短い作品がある。
主人公である〈ぼく〉はニューヨークのコレラの恐怖を遠くに聞きながら、薄ボンヤリと現実的な死に対しての恐怖と、それに反した怪奇趣味が胸のうちに共存した形で芽生え始めていた、そんな時に事件は起きた。以下でいう「この動物」とは『スフィンクス』そのもののことである。

この動物の大きさは、それが通り過ぎた一本の大樹――数本の大木は荒れ狂う地すべりを免かれたのである――の直径と比較して、現存のいかなる定期航路船にも優ると推定された。定期航路船などと言ったのは、怪物の形状から思いついたためである。
七四門の砲を備えた我が国古戦艦の姿は、この怪物の外形について何がしかの観念を伝えるかもしれない。太さは普通の象の胴体ぐらい、長さは六、七十フィートほどある鼻のさきに、口があるのだ。そして鼻の根元には、水牛二十頭分の毛を集めたよりも多い、厖大な量の黒い毛が密生している。この毛から下方に、二本の光り輝く牙が垂直に突き出ているのだが、それらは猪の牙を途方もなく巨大にしたようなものである。鼻と平行に、左右から、長さ三、四十フィートの棒状のものが前に出ている。これは純粋の水晶で出来ているらしく、形は完全なプリズムを成し――落日の光をこの上なく豪奢に反映していた。胴体は、大地に先端を突きつけた杭のような形をしている。そしてそこから二対の翼が生え――一つの翼が長さ百ヤード――一対は他の一対の上にあって、すべて金属の鱗でおおわれている。一つ一つの鱗は、どうやら、直径が十ないし十二フィートあるらしい。上段、下段の翼が強靭な鎖で連結してあることをぼくは認めた。しかしこの恐ろしい怪物の主たる特徴は、ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵であった。それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいばかりに白く描かれてあったのだ。
(ポー『ポー小説全集Ⅳ』「スフィンクス、原題The Sphinx丸谷才一訳)

種明かしをすると、この『スフィンクス』の正体は蛾である。

「君が怪物をことこまかに描写してくれなかったら」と彼は言った。「その正体を示すことは出来なかったろうね。まず、昆虫(インセクタ)綱(つまり昆虫なのですよ)、鱗翅(レピドプテラ)目、薄暮(クレプスクラリア)族、スフィンクス種についての、学生向きの説明を読みあげよう。こういう説明なんだ。
『四枚の膜質の翼は、金属状の外観を呈するいささか着色せる鱗によって覆われている。口は、同時に、巻き上げられている鼻であり、顎を伸ばせば口が開く。その左右には大顎と毛状触髪の痕跡がある。優勢翼と劣勢翼は一本の堅い毛によって接続されている。触覚は細長い棍棒の形をなし、プリズム状である。腹部に突起がある。髑髏(されこうべ)スフィンクスは、その憂鬱な叫び声および胴鎧にある死の紋章によって、これまでときどき、俗間に恐怖をまきおこした』」
彼はここで本を閉じ、椅子に腰かけたまま体をかがめ、先程ぼくが「怪物」を見たときと全く同じ位置に身を置いた。
「ああ、ここだ」と、やがて彼は叫んだ。「山肌を降りてゆく。とても目立つ恰好だ。でも、君が想像したほどは決して大きくないし、遠くへだたってるわけでもない。なぜって、窓枠に蜘蛛が張った糸の上を、のたくってのぼってゆくのだもの、こいつはいくら大きくたって十六分の一インチぐらいでしょう。ぼくの眼から十六分の一インチぐらいしか離れていないのですよ」
(ポー『ポー小説全集Ⅳ』「スフィンクス、原題The Sphinx丸谷才一訳)

「どんな蛾なんだろう」と俄然興味である!
多分みなさん一度は目にしたことがあるはずです。
羊たちの沈黙』でモチーフになっているあの髑髏模様を背に持つ不吉な蛾をイメージしていただければいいかと思います。
※しかしこちらは(ドクロ)メンガタスズメAcherontia atroposと呼ばれています
※『スフィンクス』の蛾は学名から言えばこちらSphinx ligustriあたりなのかなと思えますが、ドクロはないんですよね。


と思ったらばっちりだった。
The Sphinx- Edgar Allan Poe
Death's-head Hawkmothには

Edgar Allan Poe's short story The Sphinx describes a close encounter with a death's-headed sphinx moth, describing it as “the genus Sphinx, of the family Crepuscularia of the order Lepidoptera.”

とドクロメンガタスズメの項に説明があった。
また以下のような画像も見つけたので補強材料になるかなー。
Two-Fisted Tales of True-Life Weird Romance!: The Sphinx by Edgar Allan Poe.
一枚目にドクロメンガタスズメの描写が、
三枚目に"death's-headed sphinx moth"の記述がみられました。



結論を急げば
1. 若林は『スフィンクス』の「真犯人」ドクロメンガタスズメであり、正木はその背中のドクロそのもの = つまりポー的犯人像
2. ラージWとしての若林からスモールmとしての正木への遷移は、

その間に若林博士ぐるりと大卓子をまわって、私の向こう側の大きな廻転椅子の上に坐った。最前あの七号室で見たとおりの恰好に、小さくなって曲がり込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるために、モーニング姿の両手と両脚が、露わに細長く折れ曲がっている間へ、長い頸部(くび)と、細長い胴体とがグズグズと縮みこんで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが旧(もと)の通りの大きさで据わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌にすべく、モーニングコートを着てはい出して来たような感じに変わってしまったのであった。

「若林の収縮」として〈私〉が認識しているところから確認できる。またこの認識は『スフィンクス』の「僕」と同じ混乱状態である。
3. 若林と『スフィンクス』に見られる描写の類似点
白金色(プラチナいろ)の逞ましい時計の鎖 = 強靭な鎖(strong chain)
軍艦の舳先を見るような巨大な顎 = 七四門の砲を備えた我が国古戦艦の姿は、この怪物の外形について何がしかの観念を伝える(because the shape of the monster suggested the idea- the hull of one of our seventy-four might convey a very tolerable conception of the general outline.)

4. 正木と『スフィンクス』に見られる描写の類似点
骸骨ソックリの小男 = ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵
「全体に赤黒く日に焦けた五十恰好の紳士」が「真白な歯を一パイに剥きだして」 = それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいばかりに白く描かれてあったのだ
あわせて
(I observed that the upper and lower tiers of wings were connected by a strong chain. But the chief peculiarity of this horrible thing was the representation of a Death's Head, which covered nearly the whole surface of its breast, and which was as accurately traced in glaring white, upon the dark ground of the body, as if it had been there carefully designed by an artist.)


どうでしょうか。
ngsw が知りたいのは以下。
1. 夢野久作はポーの『スフィンクス』を読んだ、という事実
2. 『スフィンクス』が日本に初めて紹介された時期
3. くわえていうとメーテルリンク『蜜蜂の生活』を読んだ、という事実
がわかればいいなー、と思いこのエントリをまとめました。
※3は別の説を持っているので

さて、『スフィンクス』に出てくる探偵役である「彼」の発言を引用する。

「たとえば」と彼は言ったのである。「民主主義の普及が広く人類に及ぼす影響を正しく評価するためには、この普及が達成されるのはおそらく遠い将来においてであるということが、まずその評価の一要素でなければならぬ。ところが、問題のこの点について、論ずるに値するだけ考えぬいた政治学者が、今まで一人でもいたでしょうか?」


なお夢野久作は1936年03月11日に「来客の応接中に脳溢血で急死した」とのこと。
これは二・二六事件のわずか二週間後にあたる、というのも出来過ぎた話と思える。

意図せぬ告白-精子の境を巡って-

あるシチュエーションでこういう台詞を耳にしたことがあります。

「うわこいつの口、精子臭い」

品位の欠片もない言葉ではあります。
高校時代の部活動を終えた後、先輩の部室でこの台詞は生まれました。
先輩Oが、同室にいた先輩Hに向かって吐いた台詞です。

もちろん冗談混じりであり、普段のお互いの関係性は優良でしたから、
いじめに発展した、なんてことには至りませんでした。
高校生の馬鹿な茶化しあいの一こまでありました。

ですが、
僕はこの時のことを忘れることができません。
強烈に頭に焼き付いています。
何故か。

それは「言っていいことと悪いことがある」という正義感とか、
「親しき仲にも礼儀ありだろ」という礼節わきまえろとか、
そういう事ではなくて、直感的に
「人を茶化し罵る言葉としては不適当なのではないか」
と感じたからです。

実際に僕はその「精子臭い口臭」を嗅がせてもらった(「ちょっと嗅いでみ」と言われたので)わけですが、
納得いく「精子臭」は得られませんでした。
無臭だったわけでもなく、臭いといえば臭いのですが、
それは人間ですし、特筆すべきとも思えない程度の臭いだったわけです。
そこには全く腑に落ちない僕がいたわけです。

その場ではそこで話は流れ、誰もがこの馬鹿話をその場の話に留めて、
それぞれが帰り支度を整え始めるわけですが、
僕はこの「腑に落ちない感」が頭から離れませんでした。
そして一人、帰りの相鉄線の中で気付いてしまうわけです。
この「精子臭い」という言葉に秘められた本質に。

「〇〇の臭いが精子臭い」ということは、
「俺の精子は〇〇の臭いと同じだ」という告白と同じだということに気がついたのです。
これは大変なことです。
先輩Oにしてみたら「先輩Hを貶めて笑いをとる」行為だったのだと思うのですが、
よく良く考えてみるに笑い者にされるべきは先輩Oと思えてきたのです。
だって「俺の精子はこんな臭いなんですよ」なんて告白をしてる自分に気がついていないのですから。

このエピソードの教訓として得られたのは、


「〇〇は皆に共有されて然るべき事象」という先入観からの行動は、最終的に身を滅ぼしかねないので危険だ

ということでした。
ブーメラン怖いね、というお話。

大学当時の卒論の序文

……それは、何と言えばいいのだろうか。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読了した時に襲う、あの強烈な、逃げ場のない袋小路をどう言葉を尽くせば人に伝えられるだろうか。
助長を極めた会話文にこれでもかと散乱する片仮名オノマトペが、まず網膜をちかちかさせる一段階。網膜から認識された文字は困惑した脳内で、次から次へと「音声」に変化していくのであるが、「文字」が印刷された「紙ッ束」の中から、聞こえるはずのない「音声」が聞こえれば、「一足お先に」で新東が襲われた、あるはずのない右脚の痛みのように「イヒヒヒヒヒ」が何故か鼓膜をちりちり振動させるのである。それが、再び脳にフィードバックされれば文章としての意味を形成し、端から描き出される荒唐無稽な作品世界に視・聴・触・味・嗅の五感全てが刺激されるのである。深閑とした地下室の壁から染み出た、微かに(しかしながら確かに!)聞こえるあの叫声は、刺激の集約された脳髄の末路である。
長編一冊読み終えたあとの爽快感などは皆無であり、目の前にある現実が「全てが嘘」に帰っていくような救いの無さがたかだか一六〇〇枚から、科学的哲学的風俗的な一六〇〇枚、しかし全てに「モドキ」とつくような一六〇〇枚から放たれるのである。
夢野久作は全身全霊をこの作品に投じた。「これを書くために生きてきた」と言った本人の正直な感想が、本作『ドグラ・マグラ』から香りたつ様々な夢野作品のエッセンスの証明である。例えば、「キチガイ地獄」の「桐」。一人称視点と三人称一人称視点との違いはあるが、ラストに散る「桐」が、「キチガイ地獄」と言う物語を何事も無かったかのように、「無」に帰しているのだ。由良君美が「自然状態と脳髄地獄」の中で「桐」が散る様子を、「『虚無』の無音のビート」と言ったのは的を射た表現である。その「桐」は『ドグラ・マグラ』の中でも、一枚一枚散りながら、文学馬鹿読者の背後でせせら笑っている夢野久作の顔になるのだ。
「押絵の奇蹟」ではお互いに愛する人の容姿を自分の娘、息子に遺伝させるという物理的な問題を、胎教と言う精神的な問題で超越させることを試みている。これは『ドグラ・マグラ』の中では、血として受け継がれていく異常心理として描かれながらも、その異常心理の血統を絶やすことなく、循環させようとしたのである。
そんな作品を前にして論文風情がどれだけの力を持つか、正直不安がよぎる。たくさんの思想家がこの作品を独自に解析していったが、全てがそれぞれの見解、視野の範疇に過ぎない。作家であり医師でもあるなだいなだが、それぞれの『ドグラ・マグラ』解釈に対して、「まるで、ひとつひとつの解釈が、解釈者の内面世界を映し出す鏡のようなのである」と言ったのは、論文が『ドグラ・マグラ』、もしくは作家夢野久作に対して、無力で脆弱である証明であろう。解答は『ドグラ・マグラ』という名の「鏡」の先にあるのだが、それを透過させることを夢野久作は許さなかったのである。
しかし、幸いなことに夢野久作は『ドグラ・マグラ』の中に沢山のヒントを隠した。作品中「絶対探偵小説」と、彼は正木敬之の口を借りて謳った。これがこの作品における絶対的な手がかりとなるのである。探偵小説である以上、謎は解かれなくてはならない。そしてその「絶対探偵小説」を解釈しようとする人間は、様々な肩書きを棄て一人の「絶対探偵」にならなくてはならないのである。
探偵に最も必要な資質とは何か?
それは犯人と同化することを許す客観的な視点を持つことである。
一探偵となった僕は犯人「夢野久作」と同化して『ドグラ・マグラ』という鏡を裏側から覗く。その時に何が見えるかはお楽しみである。

探偵開業にうってつけの日

自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。
やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。

発端

その昔僕にも信頼できる上司というものがいました。
その方が退職されてしばらくした後に一緒に食事をする機会がありました。
その時に頂いた名刺には「〇〇探偵事務所」という文字が。
(なにこれ厨二まじヤバイ、「公安番号」まで書いてあるやり過ぎ)
などと感想を持ちました。

しかし公安番号とか付与した名刺なんか作っちゃうと、
まかり間違えば詐称とかになるのでは、と思い
「これはまずくないですかー」と尋ねたところ、
「いや、だって申請したんですもん」とのこと。
申請とか誰にだよ頭おかしい電波ゆんゆん、とか思ったのは事実です。
でもよくよく聞いてみると届出を出せば探偵ってなれるんですってよ、誰でも。

というのが3〜4年くらい前の話でしょうか。
でちょっと自由な時間が最近できたので、
上記を踏まえて自分も探偵になってみようと考えた次第です。

メリット・デメリット

メリット

「おれ探偵局長ですから」とか自慢できる。以上。
ということで「自慢なんかできねえよ」とか「そもそも自慢してどうすんだ」とか思う人にはメリットがありません。
考え方を変えると、ミステリー系同人誌を発行している方々ならば、メリットはありそげな気がします。

デメリット

公安に住所氏名を渡すことになります。
また証明書番号を元に所轄警察署に照会問い合わせがあった場合、
所轄警察署は住所や登録者名を照会希望者へ躊躇なく伝えるでしょう。
つまり
「あなたが自宅で探偵業を開業した場合、あなたの住所は探偵業届出証明書にある、証明書番号経由であなたの住所氏名は開示される」
ということです。そのための制度です。
「名刺に証明書番号を刷り込まない」ということで回避出来る内容かもしれません。*1
また可能性としてですが、営業実態がなかったとしても、就業規則等にある副業禁止規定に引っかかるかもしれません。
よって本エントリ内容は自己責任でお願いいたします。

必要なこと

探偵になるためには手続きが必要です。
これは裏を返せば「手続きさえ踏めば誰にでもなれる」ということになります。
パスポートの申請と似ている部分があります。*2
ずばり言うとここに記述してあるとおりで可能です。
1-1 探偵業の届出要領 :警視庁
で必要書類を確認してから
2-a 探偵業に関する各種手続 :警視庁
2-b 申請様式一覧(探偵業) :警視庁
で様式を確認すると最短で良いと思います。

さて前提

  • 運転免許証を持っていた
  • 成人している
  • 個人申請である/自宅である(法人でない)

ということ。
法人はきちんと調べてください。

必要書類

以下を全て揃えて所轄の警察署の生活安全部へ提出*3する必要があります。
所轄の警察署は営業所の場所で決まります。
本件では「自宅で開業」という意味合いですので、
「自分の家の住所の所轄警察署」となります。
「普段よく前を通るからあそこの警察署だろう」と思っていると、
その警察署と反対側の方向に実際の所轄の警察署があったりするので気をつけてください。
僕は最初杉並警察署へ書類提出に行きましたが、
お前さんちは荻窪警察署の所轄だぐへへ、と言われました。
警察官に聞いて調べましょう。

印刷して記述するのみ/『印刷サイズはA4』の縛りがありそうです。
  1. 探偵業開始届出書(ネットプリントの印刷代)
  2. 誓約書(ネットプリントの印刷代)
  3. 履歴書(ネットプリントの印刷代+写真代)

これらは申請様式一覧(探偵業) :警視庁にある記載例そのまま書けばいいと思います。
しかし日付まわりは記述しないでください。
これは提出時に差し戻しがあった場合に、
書き直す必要があったりめんどいので。
プリンタが無い方はネットプリントが便利です(もう一度言いますがA4で)。

特記

  • 履歴書には写真が必要です。
  • 探偵業開始届出書には名称記述が可能です。公序良俗に反しない限り好きな名前が付けられます。*4
住民票のある区役所/発行機で可能
  1. 住民票(300円/1通)

僕は杉並区民であり、自動交付機用カードというものを持っているので、
荻窪の荻窪タウンセブンで発行できたりします。便利になったもんです。
市区町村により住基台帳ネットワーク参加不参加はあるかと思います。

法務局で取得
  1. 登記されていないことの証明書(300円/1通)

出張所とかもあるのですが「この証明書は出張所で発行できないもの」と伺いました。
僕は東京法務局へ行きました
登記されていないことの証明書の説明を確認ください。
郵送も可能だそうです。

本籍地*5
  1. 身分証明書(300円/1通)

これを知らないと一日無駄にしてハマります。
『身分証明書』って免許証で足りると思っていたのですが、
実はこれは法務局の発行する、
『登記されていないことの証明書』の本籍地バージョンみたいな意味合いがあるようです。

証明書を取得し、申請書類の日付以外の記述を終え、所轄の警察署に提出します

  1. 手数料3600円/現金です/印紙不可
警察署申請時の注意事項

アポ必須である
探偵業申請受付担当の方が、所轄警察署に一人しかいない場合があります。
その方が有休なり別件で外に出払っている場合には、
「帰ってくるまで待っていてください」とか、
「今日はお休みですのでまた今度」と無駄足となります。
これは「トラックナンバー1ってやばくね」っていう気持ちもありますが、
まあしょうがないかなーというところ。
事前に「探偵業申請したいんですけど、いつ頃ならおられますかー」
と電話しておくのがいいかと思います。
で、この無駄足の可能性を考慮して「申請書類の日付は空けておきましょう」ということなのです。
不安であれば、この際に必要書類等の確認をしていただくのもいいかと思います。

「大家さんの許可はとっていますか?」という質問
僕の場合個人ですので自宅でやることになり、
そこは賃貸ですので大家さんとの契約関係の問題が生じます。
特約事項などでは「居住目的以外利用しない(商売をしない)」みたいなのがあったりするかと思います。
でこのあたりを鑑みて警察の方は、
「大家さんの許可を取っていただく必要があります」と言ってきます。
理由は

  1. 大家さんの許可をとらない結果問題が起きると、賃貸契約解除→引越しなど住所変更が発生する可能性がある
  2. 引越しが発生すると営業所の変更が必要となる
  3. 証明書番号は変更届ごとに変更されます(つまり名刺に印刷していた場合にその番号が変わる、ということ)

というのが気遣いの大きな理由です。が、これは大きなお世話である、とも言えます。
瑣末な話をすると間接的な民事介入とも言えるでしょう。
「大家さんに許可を取る気は無く、書類が揃っているのでこのまま申請します」
という態度で望むと「まあ、それでは」となります。
決して「大家さんの許可がないと開業できない」という意味ではありません。
そういう説明をする警察官がいるとすればそれは問題です。

最後の質問
探偵業を開業するにあたり、
警察の方からYes/Noでの質問を5問くらいされます。
そちらに答えていただくことで申請手続きは終りになるかと思います。
このあたりは関連する法律/もしくはその概要に目を通していただければいいかと思います。

総費用

目録 価格
申請費用 3600円
身分証明書 300円
住民票 300円
登記されていないことの証明書 300円
ネットプリント x 3 100円弱、切り上げ100円で計算
履歴書の写真 1回分 600円 として計算
合計 5200円

余裕を持ってもおおよそ6000円もあれば探偵になれるということです。

ということで

はっぴーでてくてぶ!!

追記 2012/06/01 22:20

f:id:ngsw:20120601221933j:plain
申請を終えると一週間くらいしたのちに所轄の警察署から
「取りに来てくださいねー」って電話もらえるので受け取りに行く。
写真は無印良品アクリルフレーム*6に収納した物。

*1:しかし面白みがありません

*2:そうでない部分は所轄警察の存在です

*3:厳密には「警察に提出」ではなくて「公安へ提出」であります。生活安全部→警察署長→公安委員会という流れ

*4:付けられるはずです

*5:本件では必要ないですが戸籍謄本/抄本をついでに取っておけばパスポート作れますよ

*6:探偵業届出証明書もまた、A4サイズなのです

牙を剥き、示したのはその対称性

たぶんまだ誰にもしていないだろう、高校生時代の話。
「倫理」というものが選択授業であったわけで、雑学好きな僕は迷うこと無く選んだわけです。
そもそも僕のイメージする「倫理の授業」って奴は哲学者や宗教家の人名がずらーっと並んだ教科書を、ただ読み進めていくだけの授業かと思って、実際そう言うの嫌いじゃないし、と思って選んだわけですが、始まってみるといい意味で期待を裏切られました。ディベートをやるぞ、という話になったのです。でディベートをやったわけで僕らは勝利したわけです。でも、それはどうでもいい話です。印象に残っているのは僕らじゃない組のディベートの話。

お題はこうでした。
できちゃった結婚はするべきか、するべきでないか』
ここで面白いものをみました。たまたま女性チームと男性チームに分かれる形となって、

  • 女性チーム すべきでない派
  • 男性チーム するべきだ派

と振り分けられました。


ディベートが始まってみるとそれぞれのチームの主張はこうでした。

  • 女性チーム 「すべきでない、なぜなら婚前交渉をしてはならないから」
  • 男性チーム 「するべきだ、なぜなら中絶なんてかわいそうだし、両親不在の子はそれだけ不幸にしてしまうから」

ディベートとして成立しなかったのを思い出します。


当時の僕はこれをぼんやりと聞いていて「なんでこんな話が行ったり来たり水平*1平行線なんだろう」と、半ばイライラしながら聞いていました。
ずーっとモヤモヤ考えていて、その授業を終えた昼休みにようやく気がついたのです。そうなんです。前提が違うんですよ。

  • 女性チームは「婚前交渉をしてはならない」=>「それ守ればできちゃった結婚なんて事象は起こらないんだからだめぜったい!!」
  • 男性チームは「子供ができちゃった」=>「結婚するか、片親で育てるか、中絶するかのうち、どれが一番人間的なんだよ!!」

ということをそれぞれの主張としているからです。


このことから得た教訓というのは、
「議論の前提が曖昧な場合、自分たちの主張に正当性を持たせるためだからといって、安易な誘導や引きこみをしてはならない」
ということでした。
今でもこの教訓は、議論をしようとする場合にとても大事なことだと考えています。さらに僕は「議論の前提」それよりも、議論を行う「人間の前提」として「誰も彼もが大概正しい」という持論をもっています。


僕は

大前提として「人はそれぞれ正しい」

ので

「ある人を批判」しようとした場合、
安易に自分のルールに持ち込んで批判展開することは、
結局のところ「自分のルール」を破り、
「批判対象のある人」と同じ「今まさに批判しているその振る舞い」を行なってしまう可能性が大

だと考えています。

*1:恥ずかしい

CROSS2012 参加して

NIFTYさん。エンジニアサポート新年会2012 CROSS 実行委員会様。
大変楽しい時間を過ごせて感謝しています。どうもありがとうございました。


前半:クラウドを使う人から見た運用と運用管理者の将来 #CROSS2012a
後半:大宴会+LT大会 #CROSS2012x


クラウドを使う人から見た運用と運用管理者の将来

桑野 章弘さん (@kuwa_tw)
安部 潤一郎さん
藤倉 和明さん (@fujya)
馬場 俊彰さん (@netmarkjp)
富田 順さん (@harutama)

「メリット・デメリットあるしクラウドサービスごとの癖があるけど、それでもやっぱりクラウド増えていくだろうし、実際増えている」というのが全体を通した意見。
そのなかで馬場さんの言われた

  • 「クラウドに対しての『変な夢』をお客さんが持っているとするならば、これは潰しておく必要がある」
  • 「インフラのプログラミング力が必要」

というのは大変わかりやすかった。
で、これはクラウドと離れてみても大事な部分なのでメモメモ。


あと全然関係ないんですが藤倉さんがTwitterのアイコンまんまの方だったのにびっくりしました。
似顔絵すげえな、って思った。


クラウドに関して言えば「うちみたいな(もしくはうちのお客さんのような)中小企業は使うメリットあるのかなどうかな、ってことなんだなあ。

大宴会+LT大会

ピックアップして

CROSS & VOYAGE

こしばとしあき さん(@bash0C7)
めっちゃ元気でしたw
こしばさんはいつも「人生変わるから飛び込もうぜ!!」って言ってくれてる。

(ああタイトル忘れてしまいました「Love る Dev」でしたっけ?)

@papanda さん (念のためTwitter IDで)
大変酔っておられてなんか猫みたいな状態でLTされてましたねw
しかしながらそのなかでは
「エンジニアである俺達はなんのためにいるのか」
「それはSIer、Servicer違いがあるのか」
という根源的で骨のあるメッセージでした。

個人的な思いとして

ここ2〜3年でしょうか。ずっと「自社サービスの運用したいな」って思いがあって。
というのも特定サービスにびっちり張り付き、
改善を行うことで得られる知識があると思うんですね。
で知識と同時に成果を得られて、また他の誰かが「よくなったじゃーん」って言ってくれるみたいな。
その時にエンジニアとしての手応えみたようなものが初めて感じられるのかなってもやもや考えるわけです。


僕には今自信が無い。
しかしなんでもやってみたら出来るだろう、という楽観視はある。
目の前に転がってきたチャンスには飛びついて行きたい。
チャンスを自ら拵える、マッチポンパーにならんといけない。
そういう2012年を。

末筆ではございますが

サントリーさん、ありがとうございました。
各スポンサー企業さん、ありがとうございました。

あー楽しかった。

差別のK点

「この差別主義者めー」 - 徒労の雑記において、

引用1
韓国人がパクリ大好きの低モラル民族というようなカジュアルな蔑視は、もう空気のようなレベルで日本社会(あるいは日本のネット社会)に根付いているらしい。

そしてカジュアルな蔑視差別については、

引用2
   1. 在特会レベルの突き抜けた連中さえ批判していればOKとは考えないでほしい。
   2. カジュアルに差別発言をしないでほしい。
   3. カジュアルな差別発言を見かけたときも「はいダメー」と言ってほしい。

と引用2の3.においては(想像するに)「(カジュアルな差別には)『はいダメー』とカジュアルに批判してほしい」と記述された。
しかし、

引用3
在特会あたりのメンバーが言っていても違和感ゼロの差別発言なのに、「最悪だ」とか「失望した」とか、そういう声はまるで見かけられなかった

という記述が同一エントリ内にみられた。僕は、引用3の記述は、引用1、引用2を警告するエントリ中にあってはならないものだと考えた。先の「韓国=パクリ大国」と同じように「在特会=差別発言をしそう」という比喩、代名詞化はカジュアルな差別をしているからだ。ちなみに僕は在特会を差別主義者だとは思っている。だが本件エントリ主の主旨に照らし合わせれば、それは言わば「事実であるとともにある種の<<カジュアルな差別>>」であるとも考えた。
例え『在特会は以前に差別発言をした連中だ』という事実があったとしても『在特会は常に差別発言をする連中だ』というのとは当然意味が違う。
そもそも事実であれば「差別」を避けられるわけではない。事実だからこそ「差別」になり得ることもある。
「人殺しの息子」というニックネームは例え事実であっても明らかな差別だろうし、「サノバビッチ」が事実でも同様の差別だと思う。
なぜ「在特会」を「差別主義者」の代名詞と使うことだけが許されるのか。そういう疑問を込めて、以下エントリへコメントを投じた。
「この差別主義者めー」完結編 - 徒労の雑記

ngsw:
先の『在特会あたりのメンバーが言っていても違和感ゼロの差別発言』という記述これ自体「カジュアルな差別」であるとは言えませんか。この点がひどく気になっています。
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20110116/p1#c1295291060

id:toroopさんからご対応いただいたコメントは以下であった。

私はそうは思いません。しかしngswさんがそう思われるのでしたら、堂々と批判してくださって結構です。
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20110116/p1#c1295342929

なのでここに記した。
『「韓国=パクリ大国」と「在特会=差別発言をしそう」という二つは同じような程度のカジュアルな差別発言である』と僕は考えている。
程度問題にしたくないが故に「カジュアルな」という前置きをして、結局のところ程度問題にしてしまったのはなんなんだろう。

追記:
id:novtanさんの

ラベルの種類にもよると思うけど、
自分の意思で自由に出たり入ったりできる集団に属することにラベルを貼るのは差別とは思わないな。
その人の意思が介在しない本質的な属性ではないから。

けっこう危険な思想かと思います。それは「『差別発言しそう』と言われたくなければ転向しろ」という発言と同じく思えます。実際問題で言えば在特会は差別主義者でしょう。だけれどもそれを以て「差別発言しそう」ということを紐付けるのは「カジュアルな差別」なんですよ。
「差別発言を◯◯の時にした」という指摘ならば良いんです。でも「しそう」というのはカジュアルな差別ですよ。前科者に対して延々と「前科者」「またやりそうだな」と罵っていいわけではないですよね。

間違ってほしくない点ですが、
僕は「韓国をパクリ大国だ」と言いたいわけでもないし、「在特会は差別主義者じゃない」と言いたいわけでもないんです。「『カジュアルな差別をしてはならない』という人が、カジュアルな差別をしていることに無自覚であること」に疑問を感じているのです。