違反ヒントはありません

そもさんせっぱちょーちょーはっし

僕たちは「変わらなければならない!」のですか?ほんとに?問題

ここ数年、ことあるごとに「変わらなければならない」と煽られてる気持ちがする。
『能力を発揮できない(とかなんとかよくわかんないけどいい感じになってない状態)のは、現状に適応していない君自身(これは国でも企業でも部課単位でもいい)の問題だ』というのがその叱咤激励の主旨である。というか「変わらなければならない」というのは「今のお前じゃダメなんだばーか」と言っているのと大して変わらない。ので「これは人格否定なのだ」ととっても別段問題は無いかと思う。そう思うことで「これはアドバイスなのだ」と気兼ねせず「はいはいくそったれ」と片付けられる。

僕自身は「人は概ね、個々人それぞれのスタンスにおいて正しい振る舞いをする」と考えているし、
「その人自身の最適化された答えに近いことを意識的無意識的問わず行うものなんだろう多分」と考えている。
つまり
「『君は変わらなければならない』と言う叱咤激励には、発言者の願望が含まれている」
と考えるのが僕だ。

そしてうまく結果を出せない僕達にも、
「いやそうじゃない、結果を出せないばかりじゃない。出そうと思っていない。前向きに結果を出すことを狙っていかない。あえてやらない」
というのも一種の最適解であるのだろう、というのも僕は同様に考える。*1

「君は変わらなければならない」というのは「俺自身は変わらないけどな(グヘヘ)」ということに等しく、「それは君たち個々人の問題だ」という処理の仕方である。
「いや僕はやりません、あえてやりません、結果出そうとかそういうの狙ってません」というのは、「現状の社内機能<システム>に不満がありますからね(ペコリ、失礼します)」という状態への最適応なのだと思えて仕方がない。

非常に狭い空間で
「お前は変われ、今のままじゃ駄目だ」と「僕は変わりません、今のままじゃダメです」というやりとりが繰り返されている。
裏を返せば、
「俺は変わらんよ、今のままでいい、経済情勢をよくみろ」と「そっちが変わってくださいよ、僕のメリットがないじゃないですか」というやりとりだ。

先述したとおり、どちらも正しいのだ。僕はそう考える。
であればストレートな意思表明をする側を支持したい。
「搾取させてください」vs「寄生させてください」になるか。
いやそうではなくて、
「結果を先に出すべきだ」vs「見返りを提示してください」になるか。
とにもかくにも

これは資本主義下におけるタタカイなのだ

とそう考えることにした。
「あいつを変えなれければ負け」であり、「あいつに変えられたら負け」なのである。*2

*1:もちろん併せて「一所懸命やっていますがどうしても『あなた』のいう結果が出せないのです(ショボン)」という人が多数であるのではないかな、と言うのも忘れてはならないのです。

*2:この本文も書き手と読み手において、同様のタタカイが生じるだろうと考える

「逆に何ができますか?」論法について

ある発端となるような(案件|事象)があったとして、その責任者に技術屋がこう質問される。

責任者「って案件なんだけど、できることってなにかなあ?」

あまりにも漠然としているので大抵の(部署内最適化された)技術屋はこう返す。

技術屋「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」

もっともだと思う。が、これで会話が終わる場合はほとんどない。当該の責任者はその返答はすでに予測していて、思ったとおりの気のない答えが返ってきたことにうんざりしながらも、

責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」

と返してくる

技術屋「うーん、何ができますかねえ(やばい当初より質問が増えている……)」


というやりとりをよく目にする。
これは「卵が先か鶏が先か」的チキンレースなのだとお気づきであろうか。
具体例を提示するのは少なからず責任が生じる。「ただの思いつきですが……」と一言添えること自体もストレスになり得る。
またそれ自体が一種の言質だ。情報を「先に」「多めに」出したほうが負けなのである、例えそれが同僚であろうとも。嘆かわしい。

いろんな見方がある。
会社としての成果でみれば、どんな回答を誰がしようと、正しく早く顧客に届けば顧客の満足度も上がるだろうしそれでいいのだ。
しかし部署間同士の関係性で見れば

「責任者さんの案件なんだからそっちが頭つかうべきだよね」
「そもそも技術者はその案件、絡んでませんからね」

という話になる。
その時間を費やせば解決できる程度の問題であったりするが、得てして「それは(でき|し)ません」という回答にリソースは割かれる。
不毛と言えば不毛だが、責任分界点的には正しい気がする。


個人的にはこういう回答法で行こうかと思う。

僕「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」
責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」
僕「逆は無いです。ではこの件は終わりでいいですか?」

不毛であることはわかっているが、正しいやりとりであると思える。
生産性を持たせるのならば、

僕「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」
責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」
僕「じゃあ、こっちで考えてこっちで実現して僕等の案件ってことにしますね」

ってな感じなどハードボイルドであると言えまいか。

思うに

自分の情報を出し惜しみして、相手から情報を聞き出し、その「情報管理なんだか操作能力なんだか」とやらが仕事力だと思ってる奴は総じて糞。

以上。

証明する必要があること

(天邪鬼であることはわかっているのですが)やはり納得出来ない事には従う必要はないわけです。
現在の所属企業におきましては、毎週特定曜日に1時間〜2時間弱「経営者号令のもとにはじまった『全社MTG』」を行うのが文字通り「慣習化」して来たようで、当たり前のように業務時間を浪費されてどうにも困っていたわけです。

僕としても、何もせずに黙って看過するのもおかしな話だと思ったので、実験を行う事にしました。
そもそも全社MTGとは言え、他社との打ち合わせ予定が入っていたり、リリース作業があったりで「MTGを欠席」「MTGを中座」ということは「業務優先」ということで許容されていたわけです。
ではその「許容の幅はどこまでか?」ということを調べる事にしました。

まずはじめに適当な「作業」をでっちあげることにします。とは言っても「すいません、作業がありまして」と事前にネゴって断るわけでもなく(つまりまんま「サボり」です)、問い質されたら回答するために用意しておく心づもり程度のものです。
しかし、そんな心づもりも杞憂であって、結局誰も僕がいないことを気にする人はいませんでした。

ってことを3週間くらい続けました。
3週間でわかったことは
僕が全社MTGを欠席しても

  • ほとんど誰も気にしない(気にしている人はいても何の影響もない)
  • 僕も含めて誰の業務にも支障がでない

ということでした *1

「なるほど。であれば『効果のないことに投資すべきではない』よな」という発想に行き着きます。精神論でやってこれた時代とは違うのです。全社MTGをサボる、ともすれば他者の気持ちに配慮しない行為で、「なんだよ気分悪いな」と言われる可能性が高いでしょう。

しかしですね。
「気分よく、気持ちよく働く」というのはとても重要な事柄ですが、それは巡り巡って

  • 「(短期視点で言えば)作業効率が上がるから」
  • 「(長期視点で言えば)離職率が下がり社員の成長を見込めるから」

という『結果』のためだけにあるのです。
おっさん連中が「気持ちよく働くために」「空虚な安心を得るために」「儀礼的形骸的ほげほげで時間を浪費する」ことは許されないのが今の時代です。

そこで複数の社員に宣言をするようにしました。

  1. 「(件の)全社MTGは少なくとも僕自身に価値はない」
  2. 「(あの内容の)全社MTGに毎回参加したとして、2時間*4回/月をペイする自信がない」
  3. 「(同様に)そのことを自覚しながら全社MTGに惰性で参加している人がいるのだとしたら、それはそれで危機意識がない気がする」
  4. 「(したがって)全社MTGに参加せずとも(少なくとも僕自身においては)業務に支障がでないことを証明する」

ということをやってからさらに2〜3ヶ月くらいやってますが、業務に何の支障もでないというお話。

*1:確信していたことですが

予想していたよりも「うまく」ない

接続口増設問題というのがある。電源タップをタコ足的に拡張していく際の例のあれである。単純に計算すると大概 使用可能ポート = 総 ポート - 増設タップ数 となる。
例 ) 四ツ口タップを一つから二つにする
壁のコンセント -- 四ツ口タップA -- 四ツ口タップB
つまり真ん中にある四ツ口タップA は三ツ口しか自由に使えないわけだ。いや当たり前なんですけどね。
この「あーなんか損したな」「これそこまで上手い話じゃなかったな」という感覚が去来するのがすごい不思議。

もしかすっとリソース拡張の問題で、リソース拡張に費やされるリソース消費量の問題なのかもしれない。
現場でよくある

  • 上司「外注増やせばなんとか回せるでしょ」
  • 上司「人増やしたら楽になるよね」

的見解。これも実は言うほど楽にはならない。

  • 増やした人員を管理/教育するのは誰か
  • 外注との責任分解点とか仕様とか洗い出すのは誰か

というところで、結局時間は吸い取られる。むしろ自分一人が手を動かして作業するよりも、時間がかかる場合もある。

そうかそうか、ざっくり牧歌的かつ楽天的な思考というのは「どこに挿す」「誰がやる」という点が抜けているのだ。
現場を知っている人間なら、この手の思考を先ず辿らない。正確に言えば「辿ったことで誤った経験が過去にあるのでもう二度と辿らないよう戒めている」ということ。
スイッチのポートが24ポートあったとして、

  • 「24ポートのうちどこに挿してもいい」
  • 「○○のサーバのEth2は○ポート」

前者と後者ではあとあと違ってくる。特にサーバを移設やら増設したりする場合に、前者だと「どこに挿してもいい」ということが状況把握を妨げる。楽天的に「どこに挿してもいい」と誰もが口々に言い出す。当日現場にいった作業者が「おいおい挿す場所ねーじゃん」となり得る。言い訳は「どこに挿してもいいと言われてましたので」ということになる。まあ通用しない。
一方後者では「このポートに挿さったLAN線はここに挿し換えます」と一本ずつ移し替え最終系を確認する意思が統一されているため、この手のポカは未然に防げる。

同様に
A「これ誰がやるんですか」
B「そりゃうちの部署でしょ」
A「いやそれわかってるんですけど、だから誰がやるんですか?」
B「みんなでやるんだよ」
A「みんなって誰ですか?あなたも含む?」
B「いや私は別件持ってますから」
A「じゃあみんなじゃないですね、誰がやるんですか?」
B「私以外の誰かでしょうね」
A「それってつまり僕しかいないってことですよね」
ということはありうるので気をつけよう。意図しようがしまいが『言わない噓』の典型的犠牲者である。

半身人のはしご昇降コスト

身体が右半身しか無い、ちょうど真半分に切られた人間みたようなものが、生命維持にかかる装置も無しに動き回れるような世界。そんな世界のPVが何故か目の前に流れていた。

シーンは、片側しかないはしごを上り下りするだけの半身人間。
はしごのイメージとしては「四角を積み重ねたようなはしご」ではなくて、「真ん中に芯があって、左右に互い違いに枝を生やしたようなはしご」である。本線を主にして互い違いの丁字路(十字路にならない)みたいな。
さらにその「枝をはやしたようなはしご」の真ん中から右部しかないものを想像してほしい。そんな半分のはしごを上り下りする。

PVの主題としては、「半身にしてしまえば、コストは半分で済む上、上り下りに関しては同じようにできる」みたいなこと言い出してて、あ、なるほどな、と夢の中で感心した。

真半分人間みたいなのを見せられて「ああこれはグロだなあ」とか思ってたらそんな言及一切なくて、思考実験的でなんと理性的なんだ僕はという気持ちになっていっそ誇らしくなった。

あと特殊能力なのかなんなのかしらないけど、件の半身人間の世界には『杜子春』みたいな秩序があるらしく、

  • 青く光る = コストパフォーマンス高い / 良
  • 無印 = とんとん
  • 赤く光る = コストパフォーマンス低い / 悪

みたいな機能を備えていたのだけど、これはそこまで感心できなかった。

ちなみに「中島らもは『夢の話する奴はつまらない奴だ』みたいなことを言っていた」ということを、夢の話をするたびに友達に言われ続けて来た事を思い出しながらも書いていたので、臆面もない。

『ドグラ・マグラ』九州帝国大学教授、若林・正木両名のモチーフについての一考察

底本
夢野久作

エドガー・アラン・ポー

描写1. 若林鏡太郎(九州帝国大学法医学教授)

 私の眼の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子が一個据えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝くばかりに突立っているのであった。
 それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と一と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額の斜面と、軍艦の舳先を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套を着て、その間から揺らめく白金色(プラチナいろ)の逞ましい時計の鎖の前に、細長い、蒼白い、毛ムクジャラの指を揉み合わせつつ、婦人用かと思われる華奢な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化った生物のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、吾れ知らずその方向に向き直って座り直した。

描写2. 正木敬之(九州帝国大学精神病学教授)

 私のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大卓子(テーブル)の向うの肘掛廻転椅子の上に、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨じみた男が、私と向い合いになって、チョコナンと座っている。
 それは頭をクルクル坊主に刈った……眉毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日に焦けた五十恰好の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火を点けたばかりの葉巻をギュッと啣え込んで、両腕を高々と胸の上に組んで反りかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイに剥き出してクワッと笑った。

本作品でアンポンタン・ポカンな呉一郎を惑わす二名の教授であるが、
この教授陣をイニシャルから

若林の< W > ←→ 正木の< M >

相互補完的関係である、とする説は『夢野久作の世界』などで見られた。

正木・若林は久作が表面上規定するほどに対蹠的であろうか。いや、この設問はうまくない。たしかに対蹠的であるが、ポジとネガ、つまりは相互補完的な意味において対蹠的なのである。正木はしばしばMであり、若林はしばしばWである。悪い冗談のようであるが(悪い冗談でない久作文学はない)、Mを倒立すればW、WをかえせばMではないのか。
(『夢野久作の世界』第三部 新たなる視座からの接近「循環的腐乱世界の構造」)

それとともに小説の構成自体もまた、一種の反復あるいは同心円のような構成になっている(略)なるほど、この二人は対照的に、一方は「六尺を超える巨人(おおおとこ)」であり、他方は「骸骨そっくりの小男」である。しかし、「記憶の鏡に」映して真実を語っている(はずの)正木の話のなかで、かれらが〈M〉と〈W〉として語られるとき、この二文字のいわば(上下に関する)鏡像的対称性ゆえにこの両者の判別をつけることは不可能なのだ。
(『物語の迷宮』第七章 ペダントリーの饗宴―あるいは文学機械としての博識「『ドグラ・マグラ』-円環の迷路」


学生時分には「この解釈、なんか納得いかねえんだよなあ」という気持ちであった。
確かに二人は目的を同じくして「アンポンタン・ポカン」青年を「呉一郎」へと認知させようと謀略(としておく)を巡らせているわけで『相互補完的』はうなずける部分はあるけれど、そもそも「若林でかいのに正木ちいせーじゃん」というのが僕の感想だった。
ラージWはスモールmにはならないんだよなあ。

で、この説を補うためにモチーフをさがすことにしたのが卒業論文作成当時のお話である。
ただ「おそらくこれだろう」というのは見つけられたのだけど、その証拠みたいなものが全く見つからないので、
「いっそブログエントリにしたら誰か探してくれるんじゃあるまいか」という期待を込めて、
トンデモ上等で一エントリをでっちあげてみました。


エドガー・アラン・ポーに『スフィンクス』という、とても短い作品がある。
主人公である〈ぼく〉はニューヨークのコレラの恐怖を遠くに聞きながら、薄ボンヤリと現実的な死に対しての恐怖と、それに反した怪奇趣味が胸のうちに共存した形で芽生え始めていた、そんな時に事件は起きた。以下でいう「この動物」とは『スフィンクス』そのもののことである。

この動物の大きさは、それが通り過ぎた一本の大樹――数本の大木は荒れ狂う地すべりを免かれたのである――の直径と比較して、現存のいかなる定期航路船にも優ると推定された。定期航路船などと言ったのは、怪物の形状から思いついたためである。
七四門の砲を備えた我が国古戦艦の姿は、この怪物の外形について何がしかの観念を伝えるかもしれない。太さは普通の象の胴体ぐらい、長さは六、七十フィートほどある鼻のさきに、口があるのだ。そして鼻の根元には、水牛二十頭分の毛を集めたよりも多い、厖大な量の黒い毛が密生している。この毛から下方に、二本の光り輝く牙が垂直に突き出ているのだが、それらは猪の牙を途方もなく巨大にしたようなものである。鼻と平行に、左右から、長さ三、四十フィートの棒状のものが前に出ている。これは純粋の水晶で出来ているらしく、形は完全なプリズムを成し――落日の光をこの上なく豪奢に反映していた。胴体は、大地に先端を突きつけた杭のような形をしている。そしてそこから二対の翼が生え――一つの翼が長さ百ヤード――一対は他の一対の上にあって、すべて金属の鱗でおおわれている。一つ一つの鱗は、どうやら、直径が十ないし十二フィートあるらしい。上段、下段の翼が強靭な鎖で連結してあることをぼくは認めた。しかしこの恐ろしい怪物の主たる特徴は、ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵であった。それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいばかりに白く描かれてあったのだ。
(ポー『ポー小説全集Ⅳ』「スフィンクス、原題The Sphinx丸谷才一訳)

種明かしをすると、この『スフィンクス』の正体は蛾である。

「君が怪物をことこまかに描写してくれなかったら」と彼は言った。「その正体を示すことは出来なかったろうね。まず、昆虫(インセクタ)綱(つまり昆虫なのですよ)、鱗翅(レピドプテラ)目、薄暮(クレプスクラリア)族、スフィンクス種についての、学生向きの説明を読みあげよう。こういう説明なんだ。
『四枚の膜質の翼は、金属状の外観を呈するいささか着色せる鱗によって覆われている。口は、同時に、巻き上げられている鼻であり、顎を伸ばせば口が開く。その左右には大顎と毛状触髪の痕跡がある。優勢翼と劣勢翼は一本の堅い毛によって接続されている。触覚は細長い棍棒の形をなし、プリズム状である。腹部に突起がある。髑髏(されこうべ)スフィンクスは、その憂鬱な叫び声および胴鎧にある死の紋章によって、これまでときどき、俗間に恐怖をまきおこした』」
彼はここで本を閉じ、椅子に腰かけたまま体をかがめ、先程ぼくが「怪物」を見たときと全く同じ位置に身を置いた。
「ああ、ここだ」と、やがて彼は叫んだ。「山肌を降りてゆく。とても目立つ恰好だ。でも、君が想像したほどは決して大きくないし、遠くへだたってるわけでもない。なぜって、窓枠に蜘蛛が張った糸の上を、のたくってのぼってゆくのだもの、こいつはいくら大きくたって十六分の一インチぐらいでしょう。ぼくの眼から十六分の一インチぐらいしか離れていないのですよ」
(ポー『ポー小説全集Ⅳ』「スフィンクス、原題The Sphinx丸谷才一訳)

「どんな蛾なんだろう」と俄然興味である!
多分みなさん一度は目にしたことがあるはずです。
羊たちの沈黙』でモチーフになっているあの髑髏模様を背に持つ不吉な蛾をイメージしていただければいいかと思います。
※しかしこちらは(ドクロ)メンガタスズメAcherontia atroposと呼ばれています
※『スフィンクス』の蛾は学名から言えばこちらSphinx ligustriあたりなのかなと思えますが、ドクロはないんですよね。


と思ったらばっちりだった。
The Sphinx- Edgar Allan Poe
Death's-head Hawkmothには

Edgar Allan Poe's short story The Sphinx describes a close encounter with a death's-headed sphinx moth, describing it as “the genus Sphinx, of the family Crepuscularia of the order Lepidoptera.”

とドクロメンガタスズメの項に説明があった。
また以下のような画像も見つけたので補強材料になるかなー。
Two-Fisted Tales of True-Life Weird Romance!: The Sphinx by Edgar Allan Poe.
一枚目にドクロメンガタスズメの描写が、
三枚目に"death's-headed sphinx moth"の記述がみられました。



結論を急げば
1. 若林は『スフィンクス』の「真犯人」ドクロメンガタスズメであり、正木はその背中のドクロそのもの = つまりポー的犯人像
2. ラージWとしての若林からスモールmとしての正木への遷移は、

その間に若林博士ぐるりと大卓子をまわって、私の向こう側の大きな廻転椅子の上に坐った。最前あの七号室で見たとおりの恰好に、小さくなって曲がり込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるために、モーニング姿の両手と両脚が、露わに細長く折れ曲がっている間へ、長い頸部(くび)と、細長い胴体とがグズグズと縮みこんで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが旧(もと)の通りの大きさで据わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌にすべく、モーニングコートを着てはい出して来たような感じに変わってしまったのであった。

「若林の収縮」として〈私〉が認識しているところから確認できる。またこの認識は『スフィンクス』の「僕」と同じ混乱状態である。
3. 若林と『スフィンクス』に見られる描写の類似点
白金色(プラチナいろ)の逞ましい時計の鎖 = 強靭な鎖(strong chain)
軍艦の舳先を見るような巨大な顎 = 七四門の砲を備えた我が国古戦艦の姿は、この怪物の外形について何がしかの観念を伝える(because the shape of the monster suggested the idea- the hull of one of our seventy-four might convey a very tolerable conception of the general outline.)

4. 正木と『スフィンクス』に見られる描写の類似点
骸骨ソックリの小男 = ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵
「全体に赤黒く日に焦けた五十恰好の紳士」が「真白な歯を一パイに剥きだして」 = それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいばかりに白く描かれてあったのだ
あわせて
(I observed that the upper and lower tiers of wings were connected by a strong chain. But the chief peculiarity of this horrible thing was the representation of a Death's Head, which covered nearly the whole surface of its breast, and which was as accurately traced in glaring white, upon the dark ground of the body, as if it had been there carefully designed by an artist.)


どうでしょうか。
ngsw が知りたいのは以下。
1. 夢野久作はポーの『スフィンクス』を読んだ、という事実
2. 『スフィンクス』が日本に初めて紹介された時期
3. くわえていうとメーテルリンク『蜜蜂の生活』を読んだ、という事実
がわかればいいなー、と思いこのエントリをまとめました。
※3は別の説を持っているので

さて、『スフィンクス』に出てくる探偵役である「彼」の発言を引用する。

「たとえば」と彼は言ったのである。「民主主義の普及が広く人類に及ぼす影響を正しく評価するためには、この普及が達成されるのはおそらく遠い将来においてであるということが、まずその評価の一要素でなければならぬ。ところが、問題のこの点について、論ずるに値するだけ考えぬいた政治学者が、今まで一人でもいたでしょうか?」


なお夢野久作は1936年03月11日に「来客の応接中に脳溢血で急死した」とのこと。
これは二・二六事件のわずか二週間後にあたる、というのも出来過ぎた話と思える。

意図せぬ告白-精子の境を巡って-

あるシチュエーションでこういう台詞を耳にしたことがあります。

「うわこいつの口、精子臭い」

品位の欠片もない言葉ではあります。
高校時代の部活動を終えた後、先輩の部室でこの台詞は生まれました。
先輩Oが、同室にいた先輩Hに向かって吐いた台詞です。

もちろん冗談混じりであり、普段のお互いの関係性は優良でしたから、
いじめに発展した、なんてことには至りませんでした。
高校生の馬鹿な茶化しあいの一こまでありました。

ですが、
僕はこの時のことを忘れることができません。
強烈に頭に焼き付いています。
何故か。

それは「言っていいことと悪いことがある」という正義感とか、
「親しき仲にも礼儀ありだろ」という礼節わきまえろとか、
そういう事ではなくて、直感的に
「人を茶化し罵る言葉としては不適当なのではないか」
と感じたからです。

実際に僕はその「精子臭い口臭」を嗅がせてもらった(「ちょっと嗅いでみ」と言われたので)わけですが、
納得いく「精子臭」は得られませんでした。
無臭だったわけでもなく、臭いといえば臭いのですが、
それは人間ですし、特筆すべきとも思えない程度の臭いだったわけです。
そこには全く腑に落ちない僕がいたわけです。

その場ではそこで話は流れ、誰もがこの馬鹿話をその場の話に留めて、
それぞれが帰り支度を整え始めるわけですが、
僕はこの「腑に落ちない感」が頭から離れませんでした。
そして一人、帰りの相鉄線の中で気付いてしまうわけです。
この「精子臭い」という言葉に秘められた本質に。

「〇〇の臭いが精子臭い」ということは、
「俺の精子は〇〇の臭いと同じだ」という告白と同じだということに気がついたのです。
これは大変なことです。
先輩Oにしてみたら「先輩Hを貶めて笑いをとる」行為だったのだと思うのですが、
よく良く考えてみるに笑い者にされるべきは先輩Oと思えてきたのです。
だって「俺の精子はこんな臭いなんですよ」なんて告白をしてる自分に気がついていないのですから。

このエピソードの教訓として得られたのは、


「〇〇は皆に共有されて然るべき事象」という先入観からの行動は、最終的に身を滅ぼしかねないので危険だ

ということでした。
ブーメラン怖いね、というお話。