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そもさんせっぱちょーちょーはっし

『ハンロンの剃刀』が通じないパターンを考えた

ハンロンの剃刀という語を知った。「(その愚かしい行為の根源が)無能で説明出来ることに、悪意を見るな」という意味だという。なるほど昨今セキュリティに関するバグなどを見ると、どれだけ高度なプログラマでも、ある点(それは精神的な面かも体力的な面かもしれない)で無能になってしまう瞬間があるのかもな、と考えたりした。

で、こう考えること、つまりハンロンの剃刀を僕が採用できるのは、僕が信頼しているからなのだよね。こういう技術者とそのコミュニティを。

何が言いたいかと言うと、「無能で説明できるのに、不要な悪意を付帯させるな」という方便が、通じない人には全く通じないのではないか、と考えた。無能が原因なわけではない!ってその組織に対して信頼感ない人は考えちゃうと思うんだよね。
もしくは「無能を放置した組織の悪意、または無能さ」を見出すと思うんだ(ハンロンの剃刀にピーターの法則を加味すると目も当てられない!)。

このハンロンの剃刀で指摘されている「悪意を見ちゃう」原因って、その関連する評価体制への不満だとか、(結果論ではあるけれど、「無能」を放置した)意思決定にあるんだろうな。

ここらへんの話を「公安が泳がせているのだ」的な都市伝説で語れそうな気がした。

感想『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』を語る前に事前に語ってすっきりしておきたいこと。

『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』を計2回観ました。
そんな中で考えたことがあったのでいくつか感想としてまとめたいと思いました。
しかしながら『魔法少女まどかマギカ』というか、ある種「メタな作品」と出会うといつも思い出すのが以下の件ですので、
本編の感想と混ざると非常に読みづらくなりそげなのでさっさと先出しで吐き出すことにしました。本編感想は週末に書こうかと思ってます。


落語をはじめとする古典芸能にはひとつの限界がある。それは「奈落の側にいる客は、すでに噺の内容を知っている」ということである。落語家は「みんなが知っている噺を(それなりのアレンジを加えながらも)同じように披露する」という、「感動性を提供しづらい」物語の表現法を強いられている。

粗忽長屋 談志 - YouTube
とりあえずこの落語を見て欲しい。

粗忽長屋』とは
八っつぁんが野次馬だかりの中に行き倒れを見つけ、その死体を熊さんと勘違いをする。
その上「熊の野郎が世話かけてすいません、本人を連れてきます」と、
熊さんをわざわざ自宅から連れてくるどころか、「これはお前だ間違いなくお前だ」と説得をする。
熊さんも熊さんで「ああこれは俺だ俺なんだ」と考え違える……。

という筋にするとたいしたことのない噺である。なので一度この噺を知ると「ああ、八っつぁん殿は勘違いをしているし、その勘違いを押し通して熊の野郎をつれてくるんだな」となる。そして二度目に最早感動はない。これこそが古典の宿命である。

さて。
立川談志は何をしたか。

結論を言うと、
談志は「高座」と「(客席である)奈落」の境を破壊した。

「それはあんたの勘違いだから」という制止を聞かずに八っつぁんが長屋に戻ってしまう場面(19:46〜)では、残されて呆然としてる町人(もしくは当時の警察相当?)にこういうやりとりをさせている。

A「……行っちゃった、おまえさんそこで笑ってる場合じゃないよ、どうするあれ」
B「いいじゃないすか、連れてくるっつうんだから。連れてこさせりゃいいじゃないすか。あたしゃきっとああいうのは連れてくるんじゃないかと」

また、八っつぁんが熊さんを連れて帰ってくる場面(26:48〜)ではこうだ。

A「おんなじような人がもう一人来ちゃった……やだよまあええーうーん行き倒れの当人だってさ、行き倒れの当人だって」
B「だからあたしが言ったじゃないですかあんた、ええ『連れてくるかもしれない』ってあたしゃそう言ったでしょう。連れてきたんですよ」

B が「奈落にいる観客と同じ視点を持ち合わせている」ことに気がつかれただろうか。
観客が「あれは連れてくるんですよ、そういう噺の筋なんですから」と考えていたところに、
Bに「ありゃきっと連れてきますよ」「ほら連れてきたでしょう」と語らせることで、メタな視点を持つ観客は「行き倒れを囲む野次馬」に変わるのである。メタな視点を有し、古典に対して優位性を保ってきたはずの観客は、このBの視点と気づかぬうちに同化し物語に対しての優位性を剥奪されるのである。それは観客にとっては大変幸せなことなのだ。

僕たちは「変わらなければならない!」のですか?ほんとに?問題

ここ数年、ことあるごとに「変わらなければならない」と煽られてる気持ちがする。
『能力を発揮できない(とかなんとかよくわかんないけどいい感じになってない状態)のは、現状に適応していない君自身(これは国でも企業でも部課単位でもいい)の問題だ』というのがその叱咤激励の主旨である。というか「変わらなければならない」というのは「今のお前じゃダメなんだばーか」と言っているのと大して変わらない。ので「これは人格否定なのだ」ととっても別段問題は無いかと思う。そう思うことで「これはアドバイスなのだ」と気兼ねせず「はいはいくそったれ」と片付けられる。

僕自身は「人は概ね、個々人それぞれのスタンスにおいて正しい振る舞いをする」と考えているし、
「その人自身の最適化された答えに近いことを意識的無意識的問わず行うものなんだろう多分」と考えている。
つまり
「『君は変わらなければならない』と言う叱咤激励には、発言者の願望が含まれている」
と考えるのが僕だ。

そしてうまく結果を出せない僕達にも、
「いやそうじゃない、結果を出せないばかりじゃない。出そうと思っていない。前向きに結果を出すことを狙っていかない。あえてやらない」
というのも一種の最適解であるのだろう、というのも僕は同様に考える。*1

「君は変わらなければならない」というのは「俺自身は変わらないけどな(グヘヘ)」ということに等しく、「それは君たち個々人の問題だ」という処理の仕方である。
「いや僕はやりません、あえてやりません、結果出そうとかそういうの狙ってません」というのは、「現状の社内機能<システム>に不満がありますからね(ペコリ、失礼します)」という状態への最適応なのだと思えて仕方がない。

非常に狭い空間で
「お前は変われ、今のままじゃ駄目だ」と「僕は変わりません、今のままじゃダメです」というやりとりが繰り返されている。
裏を返せば、
「俺は変わらんよ、今のままでいい、経済情勢をよくみろ」と「そっちが変わってくださいよ、僕のメリットがないじゃないですか」というやりとりだ。

先述したとおり、どちらも正しいのだ。僕はそう考える。
であればストレートな意思表明をする側を支持したい。
「搾取させてください」vs「寄生させてください」になるか。
いやそうではなくて、
「結果を先に出すべきだ」vs「見返りを提示してください」になるか。
とにもかくにも

これは資本主義下におけるタタカイなのだ

とそう考えることにした。
「あいつを変えなれければ負け」であり、「あいつに変えられたら負け」なのである。*2

*1:もちろん併せて「一所懸命やっていますがどうしても『あなた』のいう結果が出せないのです(ショボン)」という人が多数であるのではないかな、と言うのも忘れてはならないのです。

*2:この本文も書き手と読み手において、同様のタタカイが生じるだろうと考える

「逆に何ができますか?」論法について

ある発端となるような(案件|事象)があったとして、その責任者に技術屋がこう質問される。

責任者「って案件なんだけど、できることってなにかなあ?」

あまりにも漠然としているので大抵の(部署内最適化された)技術屋はこう返す。

技術屋「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」

もっともだと思う。が、これで会話が終わる場合はほとんどない。当該の責任者はその返答はすでに予測していて、思ったとおりの気のない答えが返ってきたことにうんざりしながらも、

責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」

と返してくる

技術屋「うーん、何ができますかねえ(やばい当初より質問が増えている……)」


というやりとりをよく目にする。
これは「卵が先か鶏が先か」的チキンレースなのだとお気づきであろうか。
具体例を提示するのは少なからず責任が生じる。「ただの思いつきですが……」と一言添えること自体もストレスになり得る。
またそれ自体が一種の言質だ。情報を「先に」「多めに」出したほうが負けなのである、例えそれが同僚であろうとも。嘆かわしい。

いろんな見方がある。
会社としての成果でみれば、どんな回答を誰がしようと、正しく早く顧客に届けば顧客の満足度も上がるだろうしそれでいいのだ。
しかし部署間同士の関係性で見れば

「責任者さんの案件なんだからそっちが頭つかうべきだよね」
「そもそも技術者はその案件、絡んでませんからね」

という話になる。
その時間を費やせば解決できる程度の問題であったりするが、得てして「それは(でき|し)ません」という回答にリソースは割かれる。
不毛と言えば不毛だが、責任分界点的には正しい気がする。


個人的にはこういう回答法で行こうかと思う。

僕「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」
責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」
僕「逆は無いです。ではこの件は終わりでいいですか?」

不毛であることはわかっているが、正しいやりとりであると思える。
生産性を持たせるのならば、

僕「それって結局何がしたいんですかね?それによりますね」
責任者「うーん、むしろ逆に何ができますか?どれくらいのことなら対応可能ですか?」
僕「じゃあ、こっちで考えてこっちで実現して僕等の案件ってことにしますね」

ってな感じなどハードボイルドであると言えまいか。

思うに

自分の情報を出し惜しみして、相手から情報を聞き出し、その「情報管理なんだか操作能力なんだか」とやらが仕事力だと思ってる奴は総じて糞。

以上。

証明する必要があること

(天邪鬼であることはわかっているのですが)やはり納得出来ない事には従う必要はないわけです。
現在の所属企業におきましては、毎週特定曜日に1時間〜2時間弱「経営者号令のもとにはじまった『全社MTG』」を行うのが文字通り「慣習化」して来たようで、当たり前のように業務時間を浪費されてどうにも困っていたわけです。

僕としても、何もせずに黙って看過するのもおかしな話だと思ったので、実験を行う事にしました。
そもそも全社MTGとは言え、他社との打ち合わせ予定が入っていたり、リリース作業があったりで「MTGを欠席」「MTGを中座」ということは「業務優先」ということで許容されていたわけです。
ではその「許容の幅はどこまでか?」ということを調べる事にしました。

まずはじめに適当な「作業」をでっちあげることにします。とは言っても「すいません、作業がありまして」と事前にネゴって断るわけでもなく(つまりまんま「サボり」です)、問い質されたら回答するために用意しておく心づもり程度のものです。
しかし、そんな心づもりも杞憂であって、結局誰も僕がいないことを気にする人はいませんでした。

ってことを3週間くらい続けました。
3週間でわかったことは
僕が全社MTGを欠席しても

  • ほとんど誰も気にしない(気にしている人はいても何の影響もない)
  • 僕も含めて誰の業務にも支障がでない

ということでした *1

「なるほど。であれば『効果のないことに投資すべきではない』よな」という発想に行き着きます。精神論でやってこれた時代とは違うのです。全社MTGをサボる、ともすれば他者の気持ちに配慮しない行為で、「なんだよ気分悪いな」と言われる可能性が高いでしょう。

しかしですね。
「気分よく、気持ちよく働く」というのはとても重要な事柄ですが、それは巡り巡って

  • 「(短期視点で言えば)作業効率が上がるから」
  • 「(長期視点で言えば)離職率が下がり社員の成長を見込めるから」

という『結果』のためだけにあるのです。
おっさん連中が「気持ちよく働くために」「空虚な安心を得るために」「儀礼的形骸的ほげほげで時間を浪費する」ことは許されないのが今の時代です。

そこで複数の社員に宣言をするようにしました。

  1. 「(件の)全社MTGは少なくとも僕自身に価値はない」
  2. 「(あの内容の)全社MTGに毎回参加したとして、2時間*4回/月をペイする自信がない」
  3. 「(同様に)そのことを自覚しながら全社MTGに惰性で参加している人がいるのだとしたら、それはそれで危機意識がない気がする」
  4. 「(したがって)全社MTGに参加せずとも(少なくとも僕自身においては)業務に支障がでないことを証明する」

ということをやってからさらに2〜3ヶ月くらいやってますが、業務に何の支障もでないというお話。

*1:確信していたことですが

予想していたよりも「うまく」ない

接続口増設問題というのがある。電源タップをタコ足的に拡張していく際の例のあれである。単純に計算すると大概 使用可能ポート = 総 ポート - 増設タップ数 となる。
例 ) 四ツ口タップを一つから二つにする
壁のコンセント -- 四ツ口タップA -- 四ツ口タップB
つまり真ん中にある四ツ口タップA は三ツ口しか自由に使えないわけだ。いや当たり前なんですけどね。
この「あーなんか損したな」「これそこまで上手い話じゃなかったな」という感覚が去来するのがすごい不思議。

もしかすっとリソース拡張の問題で、リソース拡張に費やされるリソース消費量の問題なのかもしれない。
現場でよくある

  • 上司「外注増やせばなんとか回せるでしょ」
  • 上司「人増やしたら楽になるよね」

的見解。これも実は言うほど楽にはならない。

  • 増やした人員を管理/教育するのは誰か
  • 外注との責任分解点とか仕様とか洗い出すのは誰か

というところで、結局時間は吸い取られる。むしろ自分一人が手を動かして作業するよりも、時間がかかる場合もある。

そうかそうか、ざっくり牧歌的かつ楽天的な思考というのは「どこに挿す」「誰がやる」という点が抜けているのだ。
現場を知っている人間なら、この手の思考を先ず辿らない。正確に言えば「辿ったことで誤った経験が過去にあるのでもう二度と辿らないよう戒めている」ということ。
スイッチのポートが24ポートあったとして、

  • 「24ポートのうちどこに挿してもいい」
  • 「○○のサーバのEth2は○ポート」

前者と後者ではあとあと違ってくる。特にサーバを移設やら増設したりする場合に、前者だと「どこに挿してもいい」ということが状況把握を妨げる。楽天的に「どこに挿してもいい」と誰もが口々に言い出す。当日現場にいった作業者が「おいおい挿す場所ねーじゃん」となり得る。言い訳は「どこに挿してもいいと言われてましたので」ということになる。まあ通用しない。
一方後者では「このポートに挿さったLAN線はここに挿し換えます」と一本ずつ移し替え最終系を確認する意思が統一されているため、この手のポカは未然に防げる。

同様に
A「これ誰がやるんですか」
B「そりゃうちの部署でしょ」
A「いやそれわかってるんですけど、だから誰がやるんですか?」
B「みんなでやるんだよ」
A「みんなって誰ですか?あなたも含む?」
B「いや私は別件持ってますから」
A「じゃあみんなじゃないですね、誰がやるんですか?」
B「私以外の誰かでしょうね」
A「それってつまり僕しかいないってことですよね」
ということはありうるので気をつけよう。意図しようがしまいが『言わない噓』の典型的犠牲者である。