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そもさんせっぱちょーちょーはっし

半分の水が入ったコップ問題

「半分の水が入ったコップ」の話で主旨主題とされるのは「リフレーミングにより広い視野を取り戻し選択肢を増やす」ことなんだけど、それでも僕は以下のように考えてこのリフレーミング的な行為自体を問題視している。

  1. 小さい問題 どう表現しようが絶対量は変わっていない
  2. 大きい問題 そもそもこの水は、特別大事な水なんでしたっけ

1. について

「半分しかない」「半分もある」どちらにせよ、例えばこれがコップでなく500mlのペットボトルであれば「250mlの水がある」というだけである。「しかない」と言おうが「もある」と言おうが量は増えない。しかしこれ自体が比喩なのでそんなこと言ったら空気読めよとなる。なので「可能性を模索することを諦めていませんか」という話なのだということを踏まえた上で言うならば「可能性踏まえるんだったら楽観的にも悲観的にもなったらダメで、ただ250mlあることを主観を込めずに絶対的な認識とすることのほうが大事なのでは」と投げかけたい。

「いまこの状態でできることなんでしたっけ?」と問われれば「建設的にできること」を回答するのが大人である。 だとしてその問いには「引き続き頑張っていきましょう」という答えを引き出すためのリフレーミングを用いよという文脈が潜められているので、それ自体単なるソーシャルエンジニアリングであり詐術であるとは言えないか。 何を恐れているかといえば「勇気ある撤退」「それはやらないという意思決定」などの選択肢をなくす行為なのではないかということ。この手のリフレーミングを持ち出すのが外部の人間ならば疑え、というのがまずひとつめ(自身の意思決定において自己責任でやるあたりがちょうどよいと思える)。

2. について

閑話休題。 前提としての「半分の水が入ったコップ」なんだけど、この手の「設問されたら答えなくてはならない」という強迫観念こそをもう少し考えたい。というか「え、その水以外を飲めばいいじゃん」って言おう。「おれ日中はコーラしか飲まないし」って。「あろうがなかろうが飲まない、米も研がなければ洗濯もしないなら、その水べつにいらない」ということを言おうと感じる。考えるべきは「どう回答してよりよい採点を得るか」というよりは「そもそもこの質問に解を出すか」ということであり裏返って「解を出すに値する問を、この有限時間の中で見つけ出さなくてはならない」ということなのかと思える。

なんのことを言っているか

Amazon.co.jp: Kindle Unlimitedのことである。僕自身もNetflixやらHuluやらに(それなりに視聴してるとはいえ)延々と金を払い続けているから他人事ではないのだが。 あと別の見方をすると「喩え話を批判するなんて、どんだけ無駄な行いなんだ」ということでもある。自戒にご期待ください。

おまけ. この話のルーツをさらっとたどったら検索トップに出てきたページ。別の文脈で引用されているドラッカーの言葉があった。

『事実の前借り』またはたったひとつの僕が許せる「言わない嘘」のこと

しびれる話を聞いた時、人は勇気を与えられたような気持ちになる。登場人物に信頼を寄せる場合はなおさらだ。自分が信じていたことの裏が取れたようで、自身の審美眼の正当性を担保され誇らしい気持ちになるからだ。

僕は「聞かれなかったから答えない」という「言わない嘘」ってやつが嫌いだ。なんというか誠実さにかける。対象に不利益を与える恐れがあるにも関わらず、自身にとって不利な証言を避けることを目的としているからだ。それが長い目で見た場合に対象との関係性を壊す可能性を考慮していない。いやそもそも対象と長い関係性を持つことを当初から考慮していないからかもしれない。だから人を「カタにはめてやろう」というようなスマートなやり口「言わない嘘」が嫌いだ。

閑話休題。しびれた話のことをしよう。
ある人X氏が交渉する立場にいた。AとBと自身であるX氏という三方がいて、X氏自身にとって最も有利になるよう交渉を進めるよう「画策」していた。X氏はこう切り出していた。Aに対しては「Bのため○○が必要」、Bに対しては「Aのため○○が必要」と。実際には「AもBも○○を理解すらしていない」にもかかわらず。その通り、これは明らかな「言わない嘘」だし、そもそも「ただの嘘」だ。

「なんだ詐術か」

違う、そうじゃないんだ。先述した「画策」というのはもしかするとこれは正確ではないかもしれない。これは「画策」ですらなかったかもしれない話なんだ。続けよう。X氏の話をする。彼は頭が切れる。だがおっちょこちょいでそそっかしい。なるほど「天は二物を与えず」か。ただ天はもう一つ彼に授けた。「信念」だ。X氏は見通していた。実際に「AにもBにも○○は必要だった」のだ。ただその説明と説得という重要な手続きをX氏は大きくスキップした。
「時間がなかったのか」ちがう。「自身に有利なように進めたかっただけなのでは」それもあるけど瑣末な問題だとわかった。答えはこうだった。「言ってもわからない人に説明してもしょうがない」なるほど天は三物目も与えるのか。彼は「傲慢」でもあった。
人はどのような時に傲慢になれるのか。思うに「自身を誰よりも高く評価し、絶対なる自信を持っている時」だと考える。正確で客観的な担保もなく、ただ「己が正しい」という場合に、謙虚さが失われれば人は誰しも傲慢になれる。へえなるほど。そうすると「信念」が彼X氏自身を「傲慢」に見せたんだきっと。X氏は誰も騙してない。実際に「AにもBにも○○は必要だった」のだから。「そうなるだろうという信念」でX氏は傲慢に見えただけなんだ。これを僕は「事実の前借り」と称して「言わない嘘」と別格に扱うよう心に刻んだ。「騙した事実は変わらない」のだけど「その裏に紛うことなき信念がある」のなら、僕はそういうのに弱いのだ。なにより(少なくとも現時点では)AもBも幸せにしているしね。

満員電車の生態系

上記のようなことがあった。
うまく説明する方法がなかったので.pptをでっちあげた。

実際当事者が本当に不快に思ったかなんてわからないのであり、
確かめようもなく僕の妄想の範囲を超えないのではある。
「傍から見た僕が不快に思った」という過剰さがここにあるだけなのかもしれない。
ただなんとなく僕の中にあるメランコリー親和型的な部分を突かれて、
胸がぎゅっとしたという話である。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は女子高生版『神聖モテモテ王国』である!

件名ですべてを言い尽くしてしまった上に、考察はない。
凰蘭氏をファーザー、門出をオンナスキーとして読んでる。

苦手なこと、未知なることを学んで気がついたこと

僕がある程度時間をかけて明示的に学んできたものは生涯においてこれだけである。
・中学、高校の部活動においてのバレーボール
・26歳から正社員として本格的に学び初めたLinuxの知識(独学ではあるが)
上記の2点を学ぶことで苦になったことはあるにはあるのだが、
気付かぬうちに克服してある程度のレベルを体得する(または、した)に至っている。
ここで自分の中に「学び方」についてのモデルが「出来上がっていた」。

厳密にいうと「出来上がっていた」というのには、実のところ語弊があるように思える。
そもそもそれ以前の「出来上がっていた学びのモデル」に合わせて、
・バレーボール
Linuxの知識
も学んできただけに過ぎない、というのが真相ではないかと振り返ってそう思う。
つまり「新しい自己を獲得した」わけではなく、「当時の自己を拡張してきた」というのが正しい。

しかしここ最近、まったくトライしたことのない領域を習得してみようと軽い気持ちで考えた。
・中学当時からまったく理解できなかった英語
この英語を習得しようと時間を割いて学んで行く過程で新たな発見があったので、
そのあたりを言語化したいと思ったのが当エントリである。


学び始めて間もないのだが、それでも「英語についてなぜ中学生の自分が理解できなかったのか」というのがわかってきた。
どうやら「英語を日本語で学ぶ」ことが理解を妨げる原因だったように思える。
先述した「当時の自己を拡張してきた」的学び方を中学時分でも同様に用いたので
・日本語と英語の共通点はなんだろう
・それ以外の例外はなんだろう
というアプローチになっていた。
そして当時の僕を思い返せば「なんだこれ、例外だらけではないか」「不整合ばかりで脳内棚の整理ができない」となることが多く、
結果諦めるようになったのでは、と考える。
日本語を母国語としてある程度熟知していただけに、
英語の教科書や教師のいう「日本語の意味」「日本語による構文パターン名」にひっかかりを覚えることで、
英語そのものの理解が妨げられていたのではないかと考えた。
これは「野球で例えると何ですか」というのの弊害と似ているように思う。

今は
・構文を覚えるために『Essential Grammar In Use with Answers』をやっている(以後、本書と呼ぶ)
・単語は現状の貯金のみで凌ぐ。「単語をより覚える」というのは後回し
という状態である。
ここでは平易な英語のみですむため、本書にある英語も(今のところは)ほとんど理解できる。
また本書冒頭にあるような "present continuous" という言葉の意味それ自体も特に理解しようとは思わない。
必要なのは「"present continuous" と掲げられた章にある構文ルールはこれだという記号的理解」のみ、という気持ちでやっている。というかそれしか情報がないからどうしようもない。それ以外を理解できる英語力がないので気にしなくていい。
「色のついた積み木をパターンどおりに並べていく(場合によっては軽く面取りして並べる)」程度の作業だ。
こうなると全くストレスなく、ただパターンを覚えることだけに集中することができる。
すべて英文だから「この場合、日本語ではどうなのか」ということを一切考慮しなくて良い。
まだ僕はそのレベルにいないのだからこれでいいのだ。
しかし日本の英語教科書だとこうはいかない。英語と日本語のすり合わせを容赦なく求めてくるからだ。求めていないのならば単に教科書に英語以外のノイズが含まれているということでもある。
何が言いたいのか。つまり「英語とは英語のことなのだ」という理解でいるし、
「英語とは日本語で説明された『英語』ではないのだ」ということでもあるかもれしれない。


ここまできて、「英語を学ぶ」=「苦手なこと、未知なることを学ぶ」ということは、
大変な人生の豊かさを得るきっかけとなるのではと考えるようにすらなった。
短絡的に言うと「英語を習得できるかもしれない喜び」というのがあるが、その背後にある「今までの自身にはなかった『技術習得アプローチ:英語を学んだようにやる』という新たな『学び方』モデルを得る」ということにこそ非常に大きな価値があるのでないか、と感じるようになった。

これはすごいことだ。
何かを習得しようとした際に、二種類の『学び方』モデルから、習得対象に合わせた最適なものを選べるようになるかもしれない。
もしくは「僕自身の持つ『学び方モデル』がさらに拡張されたのだ」という言い方でも良い。
このことに気がついたので「『学ぶ』ということは大変に面白いことなのだ」と改めて考えるようになった次第である。

『ハンロンの剃刀』が通じないパターンを考えた

ハンロンの剃刀という語を知った。「(その愚かしい行為の根源が)無能で説明出来ることに、悪意を見るな」という意味だという。なるほど昨今セキュリティに関するバグなどを見ると、どれだけ高度なプログラマでも、ある点(それは精神的な面かも体力的な面かもしれない)で無能になってしまう瞬間があるのかもな、と考えたりした。

で、こう考えること、つまりハンロンの剃刀を僕が採用できるのは、僕が信頼しているからなのだよね。こういう技術者とそのコミュニティを。

何が言いたいかと言うと、「無能で説明できるのに、不要な悪意を付帯させるな」という方便が、通じない人には全く通じないのではないか、と考えた。無能が原因なわけではない!ってその組織に対して信頼感ない人は考えちゃうと思うんだよね。
もしくは「無能を放置した組織の悪意、または無能さ」を見出すと思うんだ(ハンロンの剃刀にピーターの法則を加味すると目も当てられない!)。

このハンロンの剃刀で指摘されている「悪意を見ちゃう」原因って、その関連する評価体制への不満だとか、(結果論ではあるけれど、「無能」を放置した)意思決定にあるんだろうな。

ここらへんの話を「公安が泳がせているのだ」的な都市伝説で語れそうな気がした。