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そもさんせっぱちょーちょーはっし

「運がよかった」と考える

ライト、ついてますか―問題発見の人間学 | ドナルド・C・ゴース, G.M.ワインバーグ, 木村 泉 を読み終え、もうすぐピクサー流 創造するちから eBook: Ed Catmull, Amy Wallace, 石原 薫も読み終わりそうなところまで来ている。 読んでいて感じたことを書く。

『ライト〜』において以下が語られていたと感じた。

「それは本当に解決すべき問題か」
「この解決法ははたして最適の解であったか」
という自問自答を未来永劫繰り返す必要がある

ピクサー〜』においては

「人はやったことと現在を強く結びつけがち」
「成果がでれば自分のあの時の行動に意味があり、失敗したら周りを取り巻いていた環境のせいにしがち」
となり、「もしもそれを『やらなかったら』どのような現在になっていたか」を顧みようとしない。
畢竟「ここにある(もの|こと)は偶然の産物」なのではなかろうか

という感じ。 閑話休題

ビジネス界において「成功者の生存バイアス」はとても強く、「あの時のあの決断が今の彼の人を形成した」と伝説的に語られることが多い。 実際のところその真偽は計測不能ではないかということを僕は普段から考えているし、「もしも本当にそうなら彼の人の行動は再現性がなければならない」とも考える。 しかしながら世界というものはその再現性検証を許さない。なぜなら「彼の人」はすでに「成し遂げた彼の人」であり、また世界は「あの人の成し遂げた事柄A」を広く共有した世界なのだから、再現性検証ができるのは「A以後の拡大再生産」についてのみである。裸一貫の、無名の人の、Aが存在しない世界にAをもたらす決断の再現性検証は不可能なのである。であれば「あの時のあの行動が、本当に唯一の最適解であったか」などというものは、検証不可能な事柄である。「あの時にあの決断をした」「その後Aが生まれた」という事実が、ただ事実として存在するというだけだ。

一つ留意していただきたいのは「その決断は間違いだった」というわけではない。それは本当に「正しい決断」であったかもしれない。だがその「過去の正しい決断」を、己を英雄視せずきちんと評価するのは大変むずかしいことなのだ、ということが主旨である。過去の「事実」の羅列を前にすると、(彼の人自身も含めた)人は「あの時のあの決断」と「その後Aが生まれた」という強調されたイベントを、何か意味のある因果関係めいたものとして強く結着させて、一つの物語として理解しようと単純化を試みるからだ。『ピクサー〜』において著者の一人は以下のように語っている(改行は僕が勝手に入れた)。

ピクサーで次の映画のプロットを検討しているときは、
未来につながる道を意識的に選んでいる。
入手できる最良の情報を分析し、進む道を選んでいる。

ところが、過去を振り返るときには、
脳のパターン認識に基づいて、意味のある記憶を選んでいるのだが、
そのことに気づいている人は少ない。

それにいつも正しい選択をしているわけではない。
人は精一杯いい物語──過去のモデル──をつくろうとする。
他人の記憶の助けを借りたり、自分の限られた記録を吟味してより優れたモデルをつくろうとする。
それでもそれは現実ではなく、一つのモデルにすぎない。

『ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法』ダイヤモンド社
エド・キャットムル, エイミー・ワラス, 石原 薫(翻訳)

過去を語る時「人は見えるものしか見ていない」し「見えないものを見ようとも、見えていないだろうと気をつけることもしない」と件の筆者は言っていて、特に後者を「隠れしもの」として強く意識している。人はそもそも過去を語る時、自身のメンタルモデルに基づいて記号的に事実を寄せ集めた物語を語るため「成功譚には自身のメンタルモデルに反する事柄を排除する傾向にある」ということだ。

突き詰めるとこれらの「成功」は「偶然の産物」とみなした方が妥当性が高いのではないかと考えた。 消極的/謙遜的な意味でなく、最も論理整合性を保った形で、まだ自身に見えていない「隠れしもの」がパラメータとして存在している可能性をただひたすらに自問自答して、「運がよかった」と考えるほうが良いのではないかと考えた。

builderscon tokyo 2017 感想

追記

すべてのスポンサーさんに御礼申し上げます。 buildersconをはじめとする技術カンファレンスのスポンサーになっていただくことが、 短期的/長期的視点において企業利益につながることを心から願います。

以下から

builderscon tokyo 2017 - Aug 3, 4, 5 2017 に前夜祭から本日5日まで3日間参加してきました。ベストスピーカー賞という「よかった発表を3つ選んでね」という投票システムがあり、僕は以下に投票した次第です。

OSS開発を仕事にする技術 - builderscon tokyo 2017

この発表で何にぐっと来たかというと、自身の欲望/野望である「自身が一番望んだやり方でOSSへ貢献していくぞ」という技術的挑戦を「自社ビジネスへの貢献」という形で昇華させるというmumoshuさんの熱意とその覚悟にありました。「一番望んだ」は「楽をしたいわけではない」「むしろ茨の道」という感じで、にもかかわらず自身で意思決定して突き進み、ビジネスにきちんと貢献する形で自社システムを便利で強固なものにしていくというのは、かっこいい以外の何者でもありません。 僕は以下のような質問をしました。

「今回は『やった』話でしたが、もしも『やらなかった未来』があったとしたら、この熱量を別の形に注いでいたとしたら、どのような未来があったと思いますか」

とても漠然とした質問でした。意図としては「OSS貢献がビジネス貢献とマッチしなかった可能性について」聞いてみたいと思ったからです。 この質問に以下のようにお答え頂きました(ニュアンスが違っていたらごめんなさい)。

OSSでやってよかったことは、自分(mumoshuさん自身)だけでは到底気づけなかったことを気づくことができ、問題を発見、解決できたこと」 というようなお答えでした。この中にはおそらく「当初見積もっていた『OSS貢献の価値』以上の見返りがあった」ということなのだと感じました。実情はわからないですが、お答えいただいた表情の中にその確信と興奮を見ました。そして僕はこの表情にやられてしまったわけです。

RDBアンチパターン リファクタリング - builderscon tokyo 2017

自身の所属企業の話をしますと、まさに「DBやばくないすか」という状態でありますので、これはうっとなる内容でした。「三角仕様に丸仕様が乗ってる(マジカル!!!)」というのは、まさに僕も自社サービスに日々感ずるところであり、笑っている場合ではない(げらげら)という感じでありました。

発表者であるsoudaiさんもそうですが、僕自身ははてな社にとてもよい印象を持っていて、それは今回の発表でみられたような「銀の弾丸なんてなく、段階的に小さく一歩一歩改善していくしかないという辛い事実から逃げない」そういうエンジニアがいると勝手ながらに思っているからであります。この発表を聞いていて、YAPC::Asia Tokyo 2015 においてのPerlの上にも三年 〜 ずっとイケてるサービスを作り続ける技術 〜というhitode909さんの発表を思い出したりしました。

soudaiさんの発表に話を戻すと「現実的で地に足の着いた計画」というのが、また「改善していくこと」と「ビジネス影響を最小限にすること」を両立させていて、「これこそ目指すべきエンジニアの形だよな」というのが感想です。OSI参照モデルの「第○層:政治層」みたいなジョークがありますが、ビジネスにおいてはこれは全く正しいのですから、卑屈にならず堂々と給料を受け取るためにエンジニアとして必要な事柄なのだと感じたわけです。

AWS CodeBuild を使ってものすごい並列数で CI を実行しよう - builderscon tokyo 2017

ここまで書いてきて僕自身の嗜好みたいなものを自分自身で理解できてきました。どうやらこの手の技術的なカンファレンスであっても、実際技術的な事柄だけではそこまで興味がそそられなくて、ビジネス(もしくは笑い)と絡んだときにはじめてテンションがあがるようでした。「ビジネス的な意思決定のせめぎ合い」とか「意思決定のために選択肢を増やす」みたいなことが面白いんだと感じてるようです(あとは単なる狂気とかが好きです)。

そこでssig33さんです。今回の発表内容の経緯は「CI実行が遅くて困」り、そしてその前提として「プロダクトの価値担保であるE2Eテストを省略するわけにいかない」「さてどうするか」ということでした。やっぱりビジネス的な課題が先にあり、その中で意思決定の選択肢を増やすために創意工夫をするというあたりにかっこよさを感じます。

ssig33.com - インフラエンジニアのいらないインフラ構築 とか Web アプリケーションのインフラ等の即応対応要員の問題だが - Diary などは本当にビジネスとして正しいことを言っていて、今回の発表もこの延長線上にあるのは明らかでまったくぶれていないあたりがとても真摯なんだなと感じたんです。

最後に

builderscon 運営の皆様、また全登壇者の皆様、最後に参加者の皆々様、 楽しく数日過ごさせていただきました。ありがとうございます :)

builderscon tokyo 2017 08/04資料まとめ

これは builderscon tokyo 2017 - Aug 3, 4, 5 2017 の 08/04 まとめ。 発表資料をWeb上で見つけられたものを拾ったリンク集です。 アップされているもののなかで把握できなかったものもあるやもしれません。 間違い、不適切なものがありましたらお知らせください。

富士通クラウドテクノロジーズ

GMOペパボ株式会社

Desktop Apps with JavaScript - builderscon tokyo 2017

オンプレ、クラウドを組み合わせて作るビックデータ基盤 -データ基盤の選び方- - builderscon tokyo 2017

PHPで支える大規模アーキテクチャ - builderscon tokyo 2017

初めてのMySQLチューニング -データベースは怖くない!- - builderscon tokyo 2017

DeepLearningによるアイドル顔識別を支える技術 - builderscon tokyo 2017

OSS開発を仕事にする技術 - builderscon tokyo 2017

マイクロチームでの高速な新規開発を支える開発・分析基盤 - builderscon tokyo 2017

横山三国志に「うむ」は何コマある?〜マンガ全文検索システムの構築 - builderscon tokyo 2017

ブラウザ拡張のクロスブラウザ対応についてどう向き合っているか - builderscon tokyo 2017

真のコンポーネント粒度を求めて - builderscon tokyo 2017

Androidアプリ開発アンチパターン - builderscon tokyo 2017

Haskellを使おう - builderscon tokyo 2017

Goで実装する軽量マークアップ言語パーサー - builderscon tokyo 2017

フレームなき道を拓くPHP - builderscon tokyo 2017

複雑なJavaScriptアプリケーションに立ち向かうためのアーキテクチャ - builderscon tokyo 2017

RDBアンチパターン リファクタリング - builderscon tokyo 2017

Kubernetesのクラスタ1つに開発と本番運用に必要な環境を詰め込んだらコスパが良くなった話 - builderscon tokyo 2017

ディープラーニングを加速するVolta GPUプラットフォーム - builderscon tokyo 2017

Building high performance push notification server in Go - builderscon tokyo 2017

局所最適化するから「いい兄貴問題」に陥る

書く動機

第1回 エンジニアリングマネージャー勉強会 に参加して考えたことをまとめる。

一発目の @muddydixon さんの「ボトムアップトップダウンの技術組織への変革をしている話」を聞いて色々考えた。大変ためになりました。ありがとうございました。

上記の発表を聞いて以下のような質問をさせていただいた

  • 今回語られた内容は業務依頼/評価など(いわゆるマネージャー、リーダーから見て)部下に対してどうアプローチしていくのがよいか、というのが主な内容であったが、そこに辿り着く前の段階、上位層との信頼関係の構築はどのように行ったか

質問の意図としては「なんであれ決裁権を持たない者の指示指令は、ミクロな視点においてはどうしたって部下は聞かない(経済的なメリットがない)だろうから、上位層から権限譲渡されている前提があるのだろう。その権限譲渡をどのように果たしたのか興味があった」というものである。頂いた御回答としては

  • 直属の上司、さらにその上司の上司?の人たちと信頼関係が築けており、また社長とも直に雑談レベルから会話できる信頼関係を築けてきた経緯がある。

というものだった。この御回答を受け以下のような考えに至った。

そして自身が現職において陥っているだろう「いい兄貴問題」を再考させられ筆をとったという次第である。

マネジメントをするために必要なこと

これは以下なのだと感じる。

  • 被マネジメント層へ適切な振る舞いができるよう経営層から権限譲渡される必要がある
  • 少なくとも技術的人事評価機構は権限譲渡されなければならない

そしてこの辺りの努力の経過を定期的に公開してくださっているのがペパボ社、主にCTOの @kentaro さんなのだと感じる。

そして掲題について

「いい兄貴問題」になぜ陥るか。これは結局のところ「陥る当人はマネージャー/リーダー職についているが、経営層から適切な権限譲渡されていない現状にあるから」というのが前提にあるのではないかと考えた。 権限としての人事評価機能や、ある種の決裁権を自身が持たないがゆえに、部下への指示系統として完全には機能しない状態にある。そのことに自覚的であるからこそ「相対的に部下に報いる行為=いい兄貴として振る舞う」道を局所最適化的に選んでしまうのではないか。マネージャー/リーダーとしての役職名とその責務を(少なくとも見かけ上短絡的に)達成するための善なる気持ちが「いい兄貴問題」を生んでしまうのではないか、報い方を間違えてしまった結果なのではないかと考えた。

少なくともマネージャー/リーダーとして振る舞い、自身の管理対象となるエンジニアとよりよいチームを形成していこうというのであれば、

  1. 自身が経営層から信頼を獲得すること
  2. さらに経営層から自身に権限譲渡されること

が必要なのだと感じた次第である。今回の勉強会の内容はこれらが達成されたあと、初めて有用となるのだと考えた。

非協力が罪なのではない -心理的安全性、その前提-

を一月ほど前に読み終えていた。 ここで語られる「心理的安全性」とは「凡人ズチームで生産性を高めるための基礎たり得る哲学、方法論」というような内容である。 「心理的安全性」については、

などを参考にされたし。非常にいい考えであり建設的な内容であると思う。

しかしながら「とはいえそう言われてもねえ」という状況は、日本においては当然のように起こり得ると考えている。 僕個人は「本書のうわべの内容だけで、どの職場においても適用できる内容とは考えていない」ということであり、本書を読んで考えたのは、「チーム」よりもまずはじめに雇用者と被雇用者という労使関係の現実がある、ということだ。

被雇用者は雇用者と労働契約を結び、はじめて「チーム」に所属することとなる。 つまりは「チーム」に先んじて「労働契約」があるわけで、これは「協力」に先んじて「雇用者被雇用者間のビジネス」があるということだ。究極的な話「雇用契約に明示された『協力』は義務である」わけだが、「そうでなければ義務ではない」ということは十分主張可能である。

上記が真であれば「非協力的行動と、協力的行動のメリット/デメリットの比較」を「被雇用者」が自身の収支と検討するのは当然の流れであると言える。そうすると「非協力的行動を奨励する経済的な理由がチームに(暗黙的であれ)存在する」ということが成り立てば、「被雇用者であるチームメンバーは非協力的行動をとる」わけである。経済的には。「本書で言う『心理的安全性』を適用する場合には、雇用契約内容が被雇用者にとって充分であること」は必要条件なのだと思う。言い換えれば「本書の出発点が、御社の現況とイコールではないかもしれないこと」をもう少し考えなければならない。「心理的安全性」には当然「チームメンバーである被雇用者それぞれの待遇」が含まれる。この点は無視してはならない。

また「協力だ、心理的安全性だ」というスローガンが響かないチームにおいて、「心理的安全性」をバズワードとして持ち出してもほとんど意味が無いだろう。なぜならばそのようなチームにおいて語られる「協力」は「指令であり命令」だからだ。「協力しないことは罪」なチームにもまた「心理的安全性」は存在しないし根付かない。

実際そのあたりは本書の行間に書かれているような内容であると思えるが、「心理的安全性」という言葉だけが強く浸透することを懸念し、掲題はそのような理由でつけた。スローガン的に申し上げれば「非協力が罪なのではなく、協力してもらうよう作用させられないことが罪」なのである。あなたのチームにおいて「協力をした者」「協力を促した者」に対してインセンティブ(これは金銭でなくてもいい)を発生させる準備はありますか?「収支が合わなければ協力しないこと」はビジネス的合理性において全く正しいのだから、上記準備を備えてから「心理的安全性」を語るべきだ。

「カーゴ・カルト」所感、または「体裁カルト」について考えた

消えたプログラマの残したものは - megamouthの葬列 を読んだ。このエントリで「カーゴ・カルト」なる語を知った。 あわせて以下を読むことで「カーゴ・カルト」の概要をなんとなく理解した。

またあわせてWeb上の他の記事を読んだ。

さらには言及している作品として挙げられていた以下作品をkindleで購入して読んだ。

ここまで行い感じたことを書く。

ナンシー・マクダウェルの『「カーゴ・カルト」概念に対する批判』について納得する

カーゴ・カルト - Wikipedia の項目部しか読めていないのだが、その中で理解した範囲で言えばこの批判はある種の正しさを帯びているよう思えた。というのも、

ある民族において、現状理解できない事柄を、現状理解できている物質、精神、文化で解決しようとした場合に、 『カーゴ・カルト』と呼ばれる事象に落ち着くのは人類としてよくあるパターンのひとつである。 なので珍しがり特筆して名付けることは問題(ないしは西洋文明知識人的な傲慢)ではないか

という問いかけなのだと感じた。 この指摘を発展させると「〜という信仰、行動形態を『カーゴ・カルト』と名付けることもまた『○○・カルト』的であり、それは『カーゴ・カルト』と名付けられるもととなった「事象を知識制約内で理解すること」と同じ構造を持っているのではないか、という気持ちになった。この点においてナンシー・マクダウェル氏の批判に納得した。ただナンシー・マクダウェル氏が実在の人物か、この批判を言及した原典はなにか、という確認はとれていないのでここまでにしたい。

「体裁カルト」というのは存在する、とも言えそうな気がする

情報商材まとめサイトに端を発するデマ記事、または昨今話題の「〜と言われています」的商業でありながらも文責放棄記事が、一定のPVを稼いだりするのは、言ってみれば「体裁カルト」によるものと考えてしまっていいのではないか、という気持ちになってきた。以下にあげるのは「体裁カルト的判断から、無思考で受け入れられてしまっている現状がありそうな事柄」である。

  • Webサイトに記載されている利用規約と、その法的妥当性について
  • 住宅賃貸契約における特約事項と、その法的妥当性について
  • 企業における雇用者被雇用者間の労働契約内容と、その基盤となる労働法(これは法の存在意義も含め)との法的妥当性について
  • 内容証明と、その書面内の法的効力正当性について
  • 「消防署の方から来ました」営業風官名詐称的所属明示と、その身分担保が十分か否かについて

これらはおおよそ僕個人が嫌う「言わない嘘の結果もたらされるもの」という印象である。狭い範囲内での限定的正しさしか持たない(もしくは全く持たない)にも関わらず、まるで全体適用可能なような主張に見えるのは、それは「単純に体裁が整っているから」というだけなのではないか。

「よいお年を」問題

「よいお年を」という年末の挨拶を、僕は「(残り少ない今年を)ご家族でよりよくお過ごしください」 という意味で理解していたが一般的には「よりよい新年をお迎えください」という意味だった。
「よいお年」とは来年のことであり、今年のことではなかったのである。有終の美という感覚でいたのだが、初めよければ全て良しということなのだろうか。