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そもさんせっぱちょーちょーはっし

有用な情報にアクセスする権利がほしい

 漢字だいすきな サヨクなんて いらないのですよ。社会的障害である漢字を たいせつに おもうっていうのは、車イスで 利用できない公共機関をたいせつに感じるのと おんなじことですからね。「おれは 漢字が すきなんだ」で議論を おわらせようという ひとがいますが、アクセス権の問題ですよ。いかに共存するのかっていう問題ですよ。

ひらがな あなーきずむに よーこそ。 - hituziのブログじゃがー

確かに引用元の筆者の言うとおり、情報にアクセスできるか否かは、過去においても、また容易に多々な情報にアクセスできる現代においてはことさら重要な問題である。

英語独学関連のエントリがホッテントリ化するというのは、英語圏から発せられる情報へのアクセス権をはてブユーザーが欲しているからに他ならない。情報にアクセスする権利は、現代においては誰もが当然のごとく持ちあわせる権利、いわゆる自然権でなければならない、と僕はこのエントリを読んで考えさせられた。

活版印刷の発明は、民衆が情報へアクセスすることを助けた。インターネット、WWWの発明もまたしかりである。こう考えると情報へのアクセス権は、現代社会において徐々に自然権として成立しつつあるようだ。


しかし筆者のエントリを読み、それは「文字を読める」ことが前提であることに今更ながら気がついた。そして、字の読めない人と字が見えない(画数が多いとつぶれて判読つかない)人のことを考えて文章を書いたことなどなかったな、と思い返した。

「文字を書いているのだから当然だ」と考えることもできるが、僕がしたかったことは文字を書き綴ることでなく、思いを伝えることなのである。伝わればメディアはなんだってよかったのだ。

僕の思いが伝わる伝わらない云々は、社会的に見て瑣末なことだからどうでもよいのだが、公文書等になると別である。誰もがその情報にアクセスすることはもちろん、その情報を理解するところまで、自治体は考え助けなくてはならない。大きな文字、かなの多用、分かち書き等々を利用して。
また、文字に限らず音声であったりしてもよい。筆者は文字表記について語っているが、実は文字表記のみにこだわっているようには見えず「様々な手段を用意し誰しもが直接情報にアクセスできること」にこだわっているように見えたので付け足す。

  • 音声を利用するのは煩雑に感じるが「漢字を読むことはできない」という人もいる
  • 情報アクセス権におけるユニバーサルデザイン化、そのはじめの一歩が件の文字表記である

という点を理解した上で。


以上をふまえての感想

さて、
僕の思いを文字として表現するとするならば、僕の文体や表記上の癖等を崩し、(僕にとっては)不要なかなを交えてまで伝えたいか伝えたくないか云々も、やはり社会的には瑣末な問題ではある。だが先述の「伝わればメディアはなんだってよかった」と同様、実は僕にとっては一大事である、ということは知っておいてほしい。「情報弱者のため」を「自分の好き」より優先できるほど僕は優しさを持ち合わせてはいない。漢字は有用な情報伝達のツール/メディアであり、しかしそこにアクセスできない人がいることを筆者のエントリで知った上でもそう思う。

現在の日本において、誰しもがアクセスすべき/されるべき情報が、漢字という有用なツールなしで生まれるとはとうてい考えられないのだ。読める人間にとっては、漢字で理解できる文章にいちいちかな表記を交えられた時点で漢字の有用性は大いに崩れ、理解を妨げられることが想像できる。結果情報の質は下がる。万人にアクセスされてしかるべき情報の質を保つためには、漢字というツールは必要であり、漢字理解者に余計なふりがなは不要である、と思う。

 「だれをも支配しない。だれにも支配されない。」それが アナーキズムというものでしょう。わたしは、そう おもっています。

と筆者は考えているのならば、

漢字を へらすこと、よみがなを そえること、わかちがきすること、あるいは、ひらがなだけの文章を 提供すること

と漢字利用者の「情報を正確に素早く理解すること」を含めた情報アクセス権を阻害させることより、巷にあふれる漢字テキストにあなた自身が率先して大いにかなをふっていくべきである。あなたにはその才能があると思う。個々人の力では巷に存在するすべてのテキストにかなを振るなんて現実的でないのは承知だ。だとするならばのほほんと「あなーきずむ」などといってはいけない。政治を即刻介入させるべき手段を模索するべきである。「あなーきずむ」は筆者の皮肉であると信じたい。
漢字は現実有用であり、そのため漢字にアクセス権を持たない者が不利益を生じているのであるから、漢字を減らす方向に進むのは、質が低下している無用な情報へのアクセス権の濫造生成であるとも思え、このエントリを書いた。「情報弱者」へ最良の情報アクセス権を望む筆者へこめて。

筆者コメント/関連エントリを読んでの追記

僕の関連エントリに対しての読みが浅く、「以上をふまえての感想」で先述した内容は杞憂にすぎないことがわかった。筆者にあるのは個人から漢字を取り上げるものでなく、ふりがなを追記していく「たし算の思想」であった。だとするならば、ふりがなをつけるのは個々人でなくてもよい、ということである。筆者にあげていただいた「ウェブページで ふりがなを表示する(自動)」などは全く知らず、こういった取り組みがすでにあることを知り感心してしまった(その上で僕自身の熟読が足りなかったことを恥ずかしく思いもした)。
http://addruby.com/が元のレイアウトを崩さない形でもっとも見やすいと感じた。しかし筆者が指摘するように、固有名詞になると精度が落ちる。精度が落ちる、というよりは、これこそが固有名詞に潜んでいる問題に他ならないのだろう。それが顕在化されただけに過ぎないのだな、と感じた。「ああ、そうか。固有名詞にかなをふるだけで、現存のサービスと併用すれば先述した杞憂は完全に解消できるのだ」と気付いた。やはり WWW は広大であり偉大である。
問題は WWW はそれでもよいが、現実世界の公共のサービスとして、「ウェブページで ふりがなを表示する(自動)」に類似したサービスが存在しているかどうかにあるようだ。思い返してみるとそのようなサービスが実施されているのかどうか僕は知らない。浮かぶのは図書館にある朗読サービスくらいのものだ。それでも朗読テープの数/種類には限りもあるようだし、識字者が図書館で好みの本を借りるほどの十分な情報アクセス権が配慮されているようには思えない。
ここまで考えて、

みほ「それでも いいの!」
「じゃんけんのユニバーサルデザイン」

といえる配慮がまだまだ全然足りないのだと正直実感した。伝えなくてはならない責任をどう果たすのか突き詰めていけば、この(文字)情報で足りうるのか、という疑問はあって当然のことだと思う。「常識」だと思っていることが思いの外狭いエリアしか規定していなかった「偏見」であったことはよくある話だ。
世界には様々な事情を持った人がいるということを、僕は慮って生活してきたつもりだが、それもまた「つもり」でしかなかったようだ。まだまだ想像力が足りなかった。「想像力、それは愛だ」と歌ったロックバンドもいた。僕には「愛」が足りなかったのだなあ。筆者の引用元エントリ/いただいたコメントにより情報アクセス権だけでなく、さまざまなことを再考するきっかけとなったのは幸運だ。引用元筆者に感謝したい。