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そもさんせっぱちょーちょーはっし

敬称略して反論するとなんだか自信がないような……

タイトル訂正「敬称略さず反論するとなんだか自信がないような……」が正しいですね。


BS漫画夜話においていしかわじゅんはあの手塚治虫を「手塚」という。
「手塚先生」とは決して言わない。同じように大友克洋を「大友」という。
批評家として作品を論じるために、敬称を略している。


ブログ等のやりとり、批判やその反駁で敬称が略されていると、寒々とした気持ちになる。けれど、学術的なやりとりであれば敬称を略すのは一般的なのだから(この「一般的」というのは大学の卒論時に教授に言われたことを鵜呑みにしている。だが、他の論文を見ても敬称は略されているものばかりだったから「一般的」とする)、何かを論じようとするならば敬称は略しても相手を馬鹿にしたり非礼にあたることはない。


disりあい、というわけのわかんないものになると、敬称の有無が持つ意味はまた変わってくる。略することで上から目線だったり、あえてつけることでの下から目線だったり、見えない観客がいることを常に意識して自分が優位に立てるよう彼らを誘導する。そういうことが、敬称を省くか否かにつながってくるような気がする。脱線すると下から目線の慇懃無礼作戦はブログ界だけでなく、社会的にも結構有効であると思うがどうだろうか。どこかひっかかるところが出てくるまで下手にでておとなしくしていれば、礼儀正しく知的に見えるのであるから。


僕だったらどうするか。おそらく敬称は省かないと思う。僕の知らないあなたをもう少し教えてくれと、批判というより質問の形であったり、僕個人で、ある特定の人間像を想像してエントリをあげることが多いので、敬称は必要になるかな、と思ってしまう。これは完全に不安の表れである。相手の意図したことを僕が完全に理解できていないのではないかという、読解力の限界に対しての不安である。これは一種の逃避といってもよさそうだな。全ての人と答えをすりあわせする必要もないしね。しかし、これが行き過ぎると俺ルールが発動されてしまう。disりdisられのブログのやりとりっていう現状はこれに起因するんじゃないかな。


そもそも日本語をはじめとした言語が共通の概念であることを僕は疑っている、というのもある。書かれていること全てが、文法として整合性を持っていたとしても、単語が完全に等しく定義されているとは思えないからだ。他者と話してみると、案外単語ごとの定義が一致しないことってあるんじゃない? 大袈裟にいうと、URLのドメインの話をしていて、WindowsのActiveDirectoryの話をされると困るのと似ているってところかな。回避するためには、紛らわしい単語を扱う場合には、正確な表記を心がけよう、ということくらいか。

ブログってコミュニケーションツールとかじゃ全然なくて、コミュニケーションの難しさを顕在化させるものに過ぎないのかもしれないね。