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そもさんせっぱちょーちょーはっし

『一つ目の国』の話をしよう

まずはこちらを。

ひとつめのくに

多数派と少数派

僕は大学時分に卒論をあのドグラ・マグラ』に選んだ。その中で「狂気」「キチガイ」というものを、どう捉えようかと悩んだ。そして文献をあさっていくうちに、一冊の本に出会った。
なだいなだの『くるいきちがい考』である。
手元に本書がなく正確な引用が出来ずに恐縮ではあるが、その中にはこういった意味の一文があったように思う。
「キチガイとは見立てられて成立するものである」と。

「常識」と「非常識」、「正常」と「異常」
「これらを明確に区別するものは無く、結局のところ、多数決でしかないのだ」というのが、当時の僕の結論だった。納得がいかない方がおられたら思い出してみてほしい。UNOで遊んだときのことを。ドローツーでもめたことを思い出せば良い。その時のあなたの立場は?
もしくはじゃんけんのかけ声であったり、誰かが方言を指摘された場面であったりでもいい。見知らぬ相手と麻雀をやる際、聞いたことも無い役をルールに盛り込まれたなんてことはなかったか?思い出してみてほしい。その時のあなたの立場は? 「それおかしーよ」という立場だったか。それともいわれる立場だったか。どちらがどちらを"オカシイ"と「見立て」たのか。そしてその「見立て」は絶対だったのか。場所が変われば逆転しうる「見立て」だったのではなかったか。時が変れば逆転しうる「見立て」だったのではなかったか。この世はとかく曖昧なものばかりなのではないか。

落語の『一つ目の国』では

見世物師が「二つ目人」として見せ物にされるという下げになる。落語だからやわらかな印象で終わっているが、ある意味残酷な結末とも言える。しかしこれは当然な結末だとも思える。話の筋を知っている僕たちからすると、「一つ目人」も「二つ目人」も登場人物として認識できている。しかし作中の「一つ目人」は、「二つ目人」のことなど知らない。珍しがって見世物にするのも当然である。もしかしたら最終的には「二つ目人」である見世物師は殺されたかもしれない。

寒気がしただろうか。ならばもう一度考えてみてほしい。
差別、貧困、戦争のことを。その中で僕たちはどの立ち位置にいたか。
僕たちは果たしてこの物語で言う二つの立場を認識していた「観客」の立場であったといえるか。もしかしたら無知故に残酷な行いを、狭い範囲を規定した『常識』を後ろ盾に執行してきてはいないか。僕たちは「二つ目人」はおろか「二つ目人」のことがいるなんて考えもしなかった「一つ目人」の側だったのではないか?
よく考えろ。
殺して当然の命なんて無い。
馬鹿にして当然の人なんていない。
父と母と子が同じ屋根の下で暮らせないなんて、そんなことがあってたまるか。