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そもさんせっぱちょーちょーはっし

生き方を書くのが流行りなら

どうも最近は『私はこうやって生きてきたのよ!』をライフハック的に紹介するのが流行っているようだ。
面白そうなので僕も考えてみようと思った。

思いついた3点

『わがまま』に生きること

人生とはイッヒロマンであると思っているので、
我が(思う)儘に振る舞うのは当たり前であると思っている。
僕の一生が自伝になったとして、ある失敗を誰かのせいだ、としてしまうのは、
登場人物をいたずらにふやしているだけのような気がして、小説としての面白みが削がれる。
だからわがままに振る舞うのはいいことだと思う。

『わがまま』が良く無いこととされるのは、メタの視点で捉えることができてないからそうなるのだと思う。
自分の人生全て損得勘定で考えるべきだし、みんな無意識のうちにそうしてる。
『損得』という字面から経済的なイメージを持つので博愛人道的な振る舞いは『損得』で語られないことが、僕は不思議でしょうがない。
報酬は金銭だとか貨幣だけで得るものじゃあない。自分が欲しいと思ったもの、やりたいと思ったこと、それができた時に得られる自己満足感も言ってみれば行為に対する報酬なんだよね。だから『ボランティア』って言葉にまつわるイメージは嫌らしく感じる。金銭の授受が無いだけでそれに替わるものを奉仕者は手に入れている。

わがままに生きると『○○のため』みたいな漠然とした大義名分をかざさなくなるので、他人からみて見通しがよくなる。
僕はこういう人は返り値が一定なので付き合いが楽でいい。何やっても結論まで早いのでイライラしない。
『○○のために』って言う奴は、同じ理由で『○○のせいだ』って言うんだよ。共産主義から転向した奴とかみるとよくわかるよね。

極論OK。『物事にはグレーゾーンがある』とか訳知り顔で言わない。

ありかなし。Yes or No!! これで生きるとすごく楽。
やってみたけりゃやればいいし、やりたくなければやらなきゃいい。
やりたくないことでも、見返りを感じられるなら投資するのもあり。
まあ、特筆することもなく普通のことですなー。
グレーゾーンについては、白黒つけにいってのグレーなら認めるんだけど、灰色を置きにいってのグレーは認めない。
10x10の升目に黒白のパネルを一マスずつ並べていって、遠くから眺めたときにグレーに見える。これなら納得出来る。人間の叡智、議論の果ての華麗なグラデーション。
でも最初からグレーまんま並べにいったら、それはただの平坦なのっぺりとしたグレーなパネルだから、なんの芸術性もないやね。

ネガティブを煮詰めてポジティブにする。

ヒロト・マーシー的手法。ネガティブな状態の完全肯定で、次の一歩は確実に前向きで明るいし、
もしくは暗くて後ろ向きでも一歩は一歩で変わりないじゃんみたいな。ほんとに駄目なのは立ち止まることだよ、ってのはヒロトあたりが言いそうでもある。

ということで僕は『死』を煮詰めることで『生』の特別性を得ることができました。小学五年生の頃の話。手塚治虫の『ブッダ』を読むことで悟ってしまいました。リンカーネーションとかどうでも良くて、来世なんか信じても無いけど、地球が産まれて数十億年「僕」は死んでて、長くて100年ひょっこり生きて、また数億年は死んでるんだから、いま生きてること自体が「わぉ奇跡」みたいな。明石家さんまのじいちゃんの『生きてるだけで丸儲け』ってのはそういう意味なんだよなあ。

悲しいとか辛いとか、嬉しいとか楽しいとか、それって感動という一種の生体反応じゃない。言ってみりゃただの波形でしょ。
ピアノにある高い音と低い音みたいなもんで、どっちがより優れてるとかそういう話じゃあない。
でも、ピアノは鳴らなくなったらおしまいなんだよね。ピアノじゃなくなっちゃうんだ。どっちでもいいから鳴り響かせてピアノであることを楽しめばいいんだと思うよ。
ヒロトが『なるべく小さな幸せと、なるべく小さな不幸せ、なるべくいっぱい集めよう、そんな気持ちわかるでしょ』と歌ったのはまさにそういうこと。

基本的にこういう考えで生きてます。

「生きてりゃいいじゃん」と思うのは、「人間は当たり前に死ぬんだよ」の裏返しなんですね。
『死』を特別視することで変な空気背負わされちゃうのは良くないと思います。
本当に特別なのは、今生きてることなんですもんね。
見返してみるに「3点」の根拠はゼロだなー。同じこと言って思ってるだけ。