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そもさんせっぱちょーちょーはっし

老子を読んでいる

Web上には様々な良質なテキストコンテンツがあふれる。こうしている間にも増えていく。
そんなWebのテキストコンテンツではありますが、ある有名ブログの一文が未来永劫語り継がれていくかというと、それはそれで「期待できないだろうなあ」というのは僕の見解。UNIX/LinuxのようにWebとの親和性があり、Webが育てていった文化のテキスト(man とか RFC とか)とはちょっと違うかな、というのと、そういう一文が残る場合にはやっぱり書籍とした形で残るんじゃないかな、ということ。
で、死ぬ間際まで一生付き合うべき本を、三十路を前にそろそろ一冊決めるべきなんじゃないかな、と考えた。自分の一冊を決めようと。では、どういう本を『一生の本』として選ぶかなのですが、第一に抽象的であることがあげられるかな。どこにでも応用が利くので。
「その話は抽象的だ」と"抽象性"を馬鹿にする人がいるけれど、本来ならそういう類いのものではないね。むしろ馬鹿にされるべきは具象的な話に自分で落とし込めない人達だと思う。
抽象的であるならば、詩か宗教かというところかね。哲学だとちょっと違う。哲学は自分の庭で飼ってる鯉の話だけをしていて、しかも他人の鯉をみたことないような感じ。さもすると「他人の鯉は鯉じゃない」という風に語られることが多い気がするので。


で『老子』だ。今少し読み始めたところ。
岩波文庫、蜂屋邦夫訳・注である『老子』だ。
この本は意訳文と書き下し文と原文があり、意訳文だけ読んでも面白いからいいね。


「大切なものは目に見えない」というサン=テグジュペリの言葉。
「見えぬけれどもあるんだよ」という金子みすずの言葉。
「空っぽにみえるけれど奇麗に澄んだ水がある」という真島昌利の言葉。
これらは在る無しというよりは、なんだかわからないけど「在る」物に対しいたずらに名を与えないことなんではないかと。例えば『愛』ね。愛を『愛』と言い切って形骸化してしまうのは、僕は全く持って面白みのない発想だと思うね。で、老子はこういうことを「○○と字(あざな)す」なんて言って切り抜けてる。
夢野久作などは『ドグラ・マグラ』の中で「呉一郎」という名前をアンポンタン・ポカンに与えて、彼の精神を惑わしたわけなんだけど、これと似たようなことだと思う。あるラベリングすること、そのラベリングを受け入れることが、何かをねじ曲げてしまうわけだ。

故に、大道廃れて、安に仁義あり
智慧出でて、安に大偽あり
六親和せずして、安に孝慈あり
国家昏乱して、安に忠臣あり

老子』 第十八章 岩波文庫 蜂屋邦夫訳・注 P82

またそのラベリングが必要とされること、それがねじれそのものを可視化させた状態とも言ってるね。
だって、国を思うことがデフォルトだったら忠臣なんて概念は生まれないし、
みんなが当たり前のように親孝行してたら、孝(子と)慈(父)なんて言葉は必要ないんだよ。
ここらへんは分かりやすくいうと優先席の要不要論と同じかもね。必要とするのは満ちていないから、ということ。


それと別に、以下の動画でエレカシに歌われている鴎外の生き方は、

老子の第七章『天地』の後半部に当たるか。自らを投げ出して捨て去ったあとに残ったものこそ自らである、みたいな。