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そもさんせっぱちょーちょーはっし

多数決が保証するのは境界線だけ

多数決が保証するのは境界線だけ

http://anond.hatelabo.jp/20100902234935

http://b.hatena.ne.jp/ngsw/20100831#bookmark-24463039 のブコメに対しての反論を頂いていた。
まったく気が付かなかったので無視する形になってしまった。申し訳ないです。

"僕はどんな身体的特徴も「普通」に片付ける世の中"でも「障害者」って言葉は使うに決まってんだろ。

花粉症になったってそこまでひどい差別なんかありゃしないだろうが、現実に花粉症で面倒がある分にはそれを治そうとしなきゃいけない。

で、それをやろうとすれば花粉症の人間を「病人」としてカテゴライズする必要も出てくる。それと同じ。

身体的特徴も「普通」に片付ける? 四肢全てがないような人間にそれもありだよ、と常に言えるわけがない。四肢全てがない人間をつねに「普通」と言えるわけがない。

差別がなくなったって「普通」「通常」と「普通でない」「異常」の区別は"絶対に"存在する。

問題はそこにはない。「普通かどうか」とそれ以外を混ぜることが問題なのだから。

1行ずつ考えて行きたいと思います。

"僕はどんな身体的特徴も「普通」に片付ける世の中"でも「障害者」って言葉は使うに決まってんだろ。

なぜ決まるのか、ここで議論の前提が違うことを増田は明らかにしてくれました。
以後その説明をしてくれています。

花粉症になったってそこまでひどい差別なんかありゃしないだろうが、現実に花粉症で面倒がある分にはそれを治そうとしなきゃいけない。

僕はある病気が面倒な症状にまで悪化した場合、それを治すのは「普通」だと思います。

で、それをやろうとすれば花粉症の人間を「病人」としてカテゴライズする必要も出てくる。それと同じ。

全く持ってその通りです。普通です。

身体的特徴も「普通」に片付ける? 四肢全てがないような人間にそれもありだよ、と常に言えるわけがない。四肢全てがない人間をつねに「普通」と言えるわけがない。

花粉症だと「普通」の「病人」で、四肢欠損だと「障害者」という境界があまり理解出来ません。
先天的に手足のない人が生まれること、これは認知されていることだと思うのですね。だとすれば確率が高かろうが低かろうが、
そういう人はいつの時代も一定数いるだろうことから、僕は「普通だよね、そういう人もいるだろうね」と思うわけです。
つまり「四肢欠損は普通」だと思うわけです、僕は。

差別がなくなったって「普通」「通常」と「普通でない」「異常」の区別は"絶対に"存在する。
  • 普通と普通でない
  • 通常と異常
  • 正常と異常

その通りです。その区別は"絶対に"存在します。
しかしそれは区別の「境界線が存在する証明」でしかあり得ません。
しかも正常と異常が真逆になること、これは起こりえます。
障害者云々のラベリングは完全に統計でしょう。ある閾値を超えた時点で「正常」な進化なり退化なりで括られる事柄です。
「区別」はあるけれどその「区別」は相対的で曖昧です。
ならば、

  • 「普通の」花粉症の人(鼻グズグズ)
  • 「普通の」花粉症の人(突発的に呼吸困難になる人)
  • 「普通の」左手の小指が無い人(おひけえなすって)
  • 「普通の」四肢欠損な人(ごろごろ)

という括りではいけませんか?

問題はそこにはない。「普通かどうか」とそれ以外を混ぜることが問題なのだから。

そうですよね。
なので僕は「健常者」と「障害者」という括りに疑問を感じるわけです。
「障害者」という括りに多種多様な症状を持っているすべての方を押し込めるのは無理がありませんか?
それぞれの人生があるわけです。それぞれの幸福を感じるポイントがあるわけです。


例えば目が悪く生まれたときから「光」を知覚したことがない方もいるわけです。
そういう方が幸せだと感じて生きていたとして、なぜ「障害者」というラベリングをしなければなりませんか。
なぜ「異常」だとラベリングをしなければなりませんか。
本人にとって比べる術は無いのに、「目が見えないのですね、大変でしょう」と何故言われなければなりませんか。
下世話な比喩にすると「君は酒を飲めないのか、不幸だなガハハ」というレベルです。
彼は普通に「光を知覚できない」程度の視力の持ち主だってだけです。


最後に
あなたは誰かに「障害者」というラベルを背負せている、そういう責任を感じることはありませんか。
『障害者』と呼ばれている方々が「障害者」というラベルを100%受け入れていると思われますか。
僕はそうは思いません。

追記

おそらく僕に「違うよ!何言ってんだよ!」と言ってくれた増田は、
「補助をどうするんだ、生活をどうするんだ」とか「補助する必要があるならば、ラベルは必要だろ」ということを言ってくれてるんだと思うんですね。
これは「普通」だと思います。でもその「普通」の感覚を僕は一種の差別だとして語っているわけです。
「補助」ではないのです、自然権があるのですから。誰でも良いのです、そばにいる人が動けばいいのです。
二酸化炭素と光合成と酸素の関係と同じですね。これは人間の化学反応なんです。
「助ける」なんて恣意的なものを常識だと思ってるならば、それは「健常者」様の思い上がりなんですよ。