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そもさんせっぱちょーちょーはっし

ブルースを加速させていく、二枚舌のポジティプ

「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱について」よりも、
「『学習性無力感』の解消のためにノーマルシーバイアス的加担者へと態度を変容することについて」の方が
大事な問題。前者は後者により発生していると思える。
これを真島昌利は『ブルースは加速していく』と表現したのではないか。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: 「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱につい ...

といったポストを本日の昼過ぎに投じたわけである。
そのポストの数十分くらい前だろうか、こういったポストも投じた。

やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんないよな。
みんなで頭使ってそういう事態に至る前に止めないと。
グルーポンおせちも戦争も同じ。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらん ...

考え出したのは件のおせち事件からである。
以下のまとめに詳しい。
Togetter - 「新春おせちテロ?グルーポンで買った悲劇の1万円おせちはこうして作られた」

そして気になっていることはこれだ。『何故こういった場合に制止者が不在であることが多いのか』ということである。「どう考えても無理、どう考えても不可能、計画着手の時点ですでに破綻している」という状況にも関わらず、なぜ前に進もうとする事例は絶たないのだろうか、ということである。

勇気ある撤退は表にでてこない

そうなのだ。そもそも撤退はなかなかニュースにはならないのである。「挑戦して失敗する」ことはわかりやすい。が「挑戦を先送りにして、のちに成功する」ことは、結果「(先送りしたのちの)挑戦で成功する」ことと同義とされる。『プロジェクトX』ぐらい掘り下げてくれる人がいて初めて話題になることである。

「もう、やめようよ」は後ろ向きである、と捉えられがちである

松鶴家千代若・千代菊 - Wikipediaの一世を風靡した名文句であるが、これを嫌う人が世の中には多い。主に根性論者であったり、ボブ・マーリィに「中途半端」にかぶれたか、ただの馬鹿かどれかである。見積もりの甘さが露呈し、自らに及ぶ責任の一切を受け止められないが故に、人は「なにもなければいいな」「多分どうにかなるだろう」と進んでしまうのである。行くも地獄、戻るも地獄。どちらにしろ地獄であるが、算段が立つ地獄の方がまだましである。もうこれ以上は無理だ、と思えることでも「やめられない理由がある」人は、「取り返せる権力を持っている」人でもある。そうだ、安い労力(人件費)で補えばいいと思っている人もいるってことだ。気をつけよう。

慣性の法則は物理的な話のみでない(もしくは群衆心理にも物理学は適用される)

人はルーティンが得意なのである。悩まずにある限界までやり続けることを楽だと考える生物である。これが群衆になると付和雷同さに更なる拍車をかける。まさに「加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんない」状態になる。誰かが止めてくれるかもしれないのを、心のどこかで考えながら。けれど責任の所在が明確になってしまうため、自らはそのことを決して口にしない。

まとめ

まず、人は「正しいことをしたい」という気持ちを少なからず持っている。これは真実だ。しかしその実現への労力を鑑みた場合に大抵挫折をする。そこで二者に別れる。最初に挙げた『学習性無力感』のポストを少しいじって説明したい。

  1. A.「『学習性無力感』から鬱になる」=責任を全て一人で背負う傾向のある真面目な人
  2. B.「『学習性無力感』そのもの、もしくは『学習性無力感』に対峙した際に起こりうる鬱状態、を察知して事前に避けようとする人」=労力的に楽な方へ進む傾向があるため、多かれ少なかれ結果間違った選択へと導く加担者(トロッコを加速させる人)となる

僕のポストは「Aの人が止めようとしているトロッコを加速させているのは、実はBの人なのだ」ということを言いたかったのである。思うに、例えばブラック企業において言えば、一番の敵は経営者なのではなくて、同僚か直属の上司だったりするってこと。皆で立ち止まって考える必要がある場合、皆で立ち止まって考えないと足の引っ張り合いにしかならない。「御国のため」「会社のため」と謳うのならば、徹底して撤退することも必要だと言う、至極まともで今更な話。