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そもさんせっぱちょーちょーはっし

未知なる彼の死を守るために

自己犠牲前提の『甘えた体制』を批判する、そのための自衛隊のあり方を考える

自衛隊隊員は
自衛隊法施行規則において

宣 誓
私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、
日本国憲法 及び法令を遵守し、
一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、
心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、
強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、
事に臨んでは危険を顧みず、
身をもつて責務の完遂に務め、
もつて国民の負託にこたえることを誓います。 

と宣誓をされる、とのこと。
よって、今回のような東京電力の「人災」においても、彼等は命を賭して「事に臨」むわけだ。かような精神性を僕等は「サムライである」「日本人の誇りだ」と賞賛する嫌いがある。最悪の事象が起きた場合には「英霊だ」「英雄に敬礼し、黙祷」となるのだろう。
だけどちょっと待って欲しい。僕はここで彼等を手放しで賞賛することを止めたい。

自衛隊隊員、一人一人の意志を尊重するし、実際に現実僕らは救ってもらっている。その前提を踏まえても僕は「彼等を手放しで賞賛すること」を止めたい。震災救助に関しては「手放しで賞賛」するが原発対応に関してはそうではない。そして未知なる戦争、海外派兵においても同様にそうではない。僕は「手放しで賞賛」しない。賞賛よりも前に、彼等を死に追いやったものを憎む。彼等を死に追いやった杜撰なシステムを憎む。杜撰なシステムを承認した管理責任を問う。
つまりは僕も含めた日本人全体の<システム>に対しての責任問題を問う、ということだ。

ひとつ、よくも悪くも日本人的なるものの話。

日本人は「役割」を演じることに長けていると思う。
これが海外でいう個人主義と一線を画すものと考えている。
憑依文化と言えそうな気がする。ある「役割」を身にまとい、期待された振舞いをする。日本のコスプレ文化は根っからなんだ、と。
日本人が震災後でも平静を保っていることに、海外から賞賛の声が上がっていたが、これは日本人が公の存在である、どこかに帰属した「もう一人の自分」に重きをおいて活動した結果であるとも言える。

閑話休題

つまり自衛隊隊員は「自衛隊隊員」として死ぬのだ。個々の死を選べずに死ぬのだ。『宣誓』というイニシエーションを通じて、そういう役割を与えられた日本人は、その役割とともに殉じることを厭わない。もっと言えば特有のノーマルシーバイアスにより、役割を演じることだけに集中した結果、死を意識せず死ぬ場合もありえる(死の騙し討ち)。

英雄ではない、犠牲者なんだ。
自衛隊隊員がどのような形であれ「事に臨んで」『死』を迎えたのであれば、その責任は僕等にある。

僕等はすり替えてはならない。
自衛隊隊員の活動中の死の責任一切は、すべて僕等にあり、国家総出の殺人であることを自覚しなければならない。