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そもさんせっぱちょーちょーはっし

「もてなしの心」と「あざとさ」の間に 〜RubyKaigi2011を通して考えた「コミュニティ」に関すること〜

何よりも先に

RubyKaigi2011 スタッフの皆様
大変お疲れさまでした。
こんな素晴らしい空間があるとは思いませんでした。
最後のスタンディングオベーションは、
参加者全員の素直な感謝の気持ちが、いわゆる"シャイ"を凌駕したからだと感じてます:-)

考えていたこと

「最後のRubyKaigi」ということで「日本の活発なコミュニティを一度も見ずにいたら後悔する」と、
プログラマでもないのに初めて参加しました。
その中で「コミュニティ」と「人」の関係性を、ふわふわと考えていました。
実際には僕が考えているよりももっともっと難しい問題なのだと思いますが、
つらつら書かせていただきます。*1

ボッチとは状態を表す言葉でしかない

とまずは考えた次第です。
「一人ぼっちな昼食ではなくて、どうせならRubyist同士で交流してってよ!」
「でもお前らシャイだからな!!」「用意しましたよ、まったく仕方ねーな!!!」
ということでボッチマッチングシステム「アンボッチランチ」という、
とても面白いシステムが運用されていました。
フランクに申請をすると、見知らぬRubyist数人でまとまって、近所の地図を渡されて「みんなで食べてきてー」という、
面白く(しかも効果的な)システムでした。


さて、こんな素晴らしいシステムですが、
それでもボッチとして取りこぼされる人はいたのです。
何故か。
それはその人が「事前に準備されたシステムに、素直に乗ることが出来ない人」だからです。
差し出された手を素直に握り返せない人がいるのです。
意地っ張りだから自分に「ボッチ」というラベリングがされることをヨシとしません。
彼等はこう言います「一人のが気楽でいいよー」
でもそんなわけはないのです。気の合う未知の友人を求めているわけです。
あーめんどくせー。不器用ですよね、泣けてきますね。


で。


こういう人達を「(コミュニティの)運営側」は切り捨てるべきか否かということを、
RubyKaigi中に全く関係ないことを考えていたわけです。
「コミュニティ存続のために『歓待』の限度を設定するか、するならばその限度はどの程度か」ということを。


図式としては「生活保護を受けるべき経済状況の人が、生活保護申請をかたくなに拒む」というのと似ているかもしれません。
アンボッチランチは「あざとさ=作為性」をくじびき的に行うことで、より排除されてはいたのですが、
それでも「申請」というアクションを要したために、プライドが障壁となって懲りずにボッチ化する人がでたわけです。

そんな参加者(コミュニティのユーザ)を運営側はどうやって「軟化」できるか

ほっとけばいいと思います。
身も蓋も無いですが、ほっとけばいいんです。
今回僕の考えは

  • システムは当然取りこぼしますよ
  • 準備されたシステム(敷いたレール)にのっからないユーザが悪いという見方はしたくないですよ
  • いろんな人がいますからね

ということのみです。

それって結局何も変わらないじゃない?

や、っていうか参加者ってそれ自体が「コミュニティ」の一員なので、強度は違えど「運営者」でもあるんですよね。
「ボッチいくない!!」って思うならば腕章つけてない一般参加者(微弱な運営者)が動かないと、アンボッチランチが目指した「理想」まで到達できないと思うのですね。
日本人は「大義名分」を嫌というほど活用します。だから「肩書き」があれば他人に親切にできるのです。
しかしそのあざとさに敏感なナイーブさも持ち合わせるわけです。なのでステルスボッチマッチングメイカーが必要なわけですね。
案外めんどくさいですね。*2


今後は「あざとさ」は「外」へ向けて利用する必要があるかもしれません。
そうすれば「もてなしの心」へと変わるはずです。
英語勉強しないとな……。

*1:これはRubyKaigi2011の会場で見た事象をトリガーとして id:ngsw が飛躍させた思考実験であることをご了承ください

*2:こんなこと考えてるひねくれ者は僕だけですか?どーですか?