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そもさんせっぱちょーちょーはっし

感想『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』を語る前に事前に語ってすっきりしておきたいこと。

『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』を計2回観ました。
そんな中で考えたことがあったのでいくつか感想としてまとめたいと思いました。
しかしながら『魔法少女まどかマギカ』というか、ある種「メタな作品」と出会うといつも思い出すのが以下の件ですので、
本編の感想と混ざると非常に読みづらくなりそげなのでさっさと先出しで吐き出すことにしました。本編感想は週末に書こうかと思ってます。


落語をはじめとする古典芸能にはひとつの限界がある。それは「奈落の側にいる客は、すでに噺の内容を知っている」ということである。落語家は「みんなが知っている噺を(それなりのアレンジを加えながらも)同じように披露する」という、「感動性を提供しづらい」物語の表現法を強いられている。

粗忽長屋 談志 - YouTube
とりあえずこの落語を見て欲しい。

粗忽長屋』とは
八っつぁんが野次馬だかりの中に行き倒れを見つけ、その死体を熊さんと勘違いをする。
その上「熊の野郎が世話かけてすいません、本人を連れてきます」と、
熊さんをわざわざ自宅から連れてくるどころか、「これはお前だ間違いなくお前だ」と説得をする。
熊さんも熊さんで「ああこれは俺だ俺なんだ」と考え違える……。

という筋にするとたいしたことのない噺である。なので一度この噺を知ると「ああ、八っつぁん殿は勘違いをしているし、その勘違いを押し通して熊の野郎をつれてくるんだな」となる。そして二度目に最早感動はない。これこそが古典の宿命である。

さて。
立川談志は何をしたか。

結論を言うと、
談志は「高座」と「(客席である)奈落」の境を破壊した。

「それはあんたの勘違いだから」という制止を聞かずに八っつぁんが長屋に戻ってしまう場面(19:46〜)では、残されて呆然としてる町人(もしくは当時の警察相当?)にこういうやりとりをさせている。

A「……行っちゃった、おまえさんそこで笑ってる場合じゃないよ、どうするあれ」
B「いいじゃないすか、連れてくるっつうんだから。連れてこさせりゃいいじゃないすか。あたしゃきっとああいうのは連れてくるんじゃないかと」

また、八っつぁんが熊さんを連れて帰ってくる場面(26:48〜)ではこうだ。

A「おんなじような人がもう一人来ちゃった……やだよまあええーうーん行き倒れの当人だってさ、行き倒れの当人だって」
B「だからあたしが言ったじゃないですかあんた、ええ『連れてくるかもしれない』ってあたしゃそう言ったでしょう。連れてきたんですよ」

B が「奈落にいる観客と同じ視点を持ち合わせている」ことに気がつかれただろうか。
観客が「あれは連れてくるんですよ、そういう噺の筋なんですから」と考えていたところに、
Bに「ありゃきっと連れてきますよ」「ほら連れてきたでしょう」と語らせることで、メタな視点を持つ観客は「行き倒れを囲む野次馬」に変わるのである。メタな視点を有し、古典に対して優位性を保ってきたはずの観客は、このBの視点と気づかぬうちに同化し物語に対しての優位性を剥奪されるのである。それは観客にとっては大変幸せなことなのだ。