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そもさんせっぱちょーちょーはっし

苦手なこと、未知なることを学んで気がついたこと

僕がある程度時間をかけて明示的に学んできたものは生涯においてこれだけである。
・中学、高校の部活動においてのバレーボール
・26歳から正社員として本格的に学び初めたLinuxの知識(独学ではあるが)
上記の2点を学ぶことで苦になったことはあるにはあるのだが、
気付かぬうちに克服してある程度のレベルを体得する(または、した)に至っている。
ここで自分の中に「学び方」についてのモデルが「出来上がっていた」。

厳密にいうと「出来上がっていた」というのには、実のところ語弊があるように思える。
そもそもそれ以前の「出来上がっていた学びのモデル」に合わせて、
・バレーボール
Linuxの知識
も学んできただけに過ぎない、というのが真相ではないかと振り返ってそう思う。
つまり「新しい自己を獲得した」わけではなく、「当時の自己を拡張してきた」というのが正しい。

しかしここ最近、まったくトライしたことのない領域を習得してみようと軽い気持ちで考えた。
・中学当時からまったく理解できなかった英語
この英語を習得しようと時間を割いて学んで行く過程で新たな発見があったので、
そのあたりを言語化したいと思ったのが当エントリである。


学び始めて間もないのだが、それでも「英語についてなぜ中学生の自分が理解できなかったのか」というのがわかってきた。
どうやら「英語を日本語で学ぶ」ことが理解を妨げる原因だったように思える。
先述した「当時の自己を拡張してきた」的学び方を中学時分でも同様に用いたので
・日本語と英語の共通点はなんだろう
・それ以外の例外はなんだろう
というアプローチになっていた。
そして当時の僕を思い返せば「なんだこれ、例外だらけではないか」「不整合ばかりで脳内棚の整理ができない」となることが多く、
結果諦めるようになったのでは、と考える。
日本語を母国語としてある程度熟知していただけに、
英語の教科書や教師のいう「日本語の意味」「日本語による構文パターン名」にひっかかりを覚えることで、
英語そのものの理解が妨げられていたのではないかと考えた。
これは「野球で例えると何ですか」というのの弊害と似ているように思う。

今は
・構文を覚えるために『Essential Grammar In Use with Answers』をやっている(以後、本書と呼ぶ)
・単語は現状の貯金のみで凌ぐ。「単語をより覚える」というのは後回し
という状態である。
ここでは平易な英語のみですむため、本書にある英語も(今のところは)ほとんど理解できる。
また本書冒頭にあるような "present continuous" という言葉の意味それ自体も特に理解しようとは思わない。
必要なのは「"present continuous" と掲げられた章にある構文ルールはこれだという記号的理解」のみ、という気持ちでやっている。というかそれしか情報がないからどうしようもない。それ以外を理解できる英語力がないので気にしなくていい。
「色のついた積み木をパターンどおりに並べていく(場合によっては軽く面取りして並べる)」程度の作業だ。
こうなると全くストレスなく、ただパターンを覚えることだけに集中することができる。
すべて英文だから「この場合、日本語ではどうなのか」ということを一切考慮しなくて良い。
まだ僕はそのレベルにいないのだからこれでいいのだ。
しかし日本の英語教科書だとこうはいかない。英語と日本語のすり合わせを容赦なく求めてくるからだ。求めていないのならば単に教科書に英語以外のノイズが含まれているということでもある。
何が言いたいのか。つまり「英語とは英語のことなのだ」という理解でいるし、
「英語とは日本語で説明された『英語』ではないのだ」ということでもあるかもれしれない。


ここまできて、「英語を学ぶ」=「苦手なこと、未知なることを学ぶ」ということは、
大変な人生の豊かさを得るきっかけとなるのではと考えるようにすらなった。
短絡的に言うと「英語を習得できるかもしれない喜び」というのがあるが、その背後にある「今までの自身にはなかった『技術習得アプローチ:英語を学んだようにやる』という新たな『学び方』モデルを得る」ということにこそ非常に大きな価値があるのでないか、と感じるようになった。

これはすごいことだ。
何かを習得しようとした際に、二種類の『学び方』モデルから、習得対象に合わせた最適なものを選べるようになるかもしれない。
もしくは「僕自身の持つ『学び方モデル』がさらに拡張されたのだ」という言い方でも良い。
このことに気がついたので「『学ぶ』ということは大変に面白いことなのだ」と改めて考えるようになった次第である。