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そもさんせっぱちょーちょーはっし

『エンジニアリング組織論への招待』を読んだ、または「さよなら、コミュニケーション能力」

エンジニアリング組織論への招待 ~不確実性に向き合う思考と組織のリファクタリング (Kindle版)を読み終えていた。 感想を書いていなかったので書く。 著者の方へtwitterでいくつか質問を投げてすぐお答えいただいたというのもある。 それになにより現在進行系で自社でのメンタリング手法の参考にさせていただいている身としては、 復習の意味も込めて書いてみようという気になったのである。

とは言え少々出遅れた感じがある。何より僕はこういった単なる本の感想を書くのが実に苦手である。 ということでこの本を読み(特にメンタリング)、考えたこと、その先のことを書こうと思う。

著者の方へtwitterでいくつか質問を投げ たと述べたのは以下である。 ※読み返してみると先に声をかけていただき、しかも追加で質問にもご回答いただいた形だったので本当に嬉しい:-)

当該ツイートは「メンタリングすんぞ、って言うだけの企業ってありそうだよな」と感じたことの純粋な感想である。 このツイートにご返信いただいたあとに改めて投げかけさせていただいた質問の意図にあるのは「『メンタリング』というプロトコルが『メンターとメンティだけの関係に閉じる』のだとしたらもったいないよな」と考えたことにある。つまりは企業に言われたからメンター役をこなしているという状態。メンター期間を過ぎたらその振る舞いを忘れてしまうというような。

唐突にここで カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで(Kindle) の話をしだして恐縮なのだが、カイゼン・ジャーニーを読んで感じたのは「『越境』をする際に起こるそれぞれの立場から発せられる理論武装された正論ってほんと重く大きく壁として立ちはだかるよね」という感想である。「正論」が厄介なのはそれが正しいからだけでなく、その発言をさせている根源/本性が見えないからとも言える。

あれ?これメンタリングでどうにかなりませんかね。 というかこれをなんとかするためにメンタリングがあるのでは?

ということで考えたのは「職場の業務上コミュニケーションプロトコルが基本的にメンタリング的になればいいよな」ということ。もやっとしたこと、こうやって行こうかと考えるんだけどみんなはどう思うかなどうかなみたいなことを上手く言えなくて悩んでるんだよねってあわせて伝えること、それを聞くときの見守り態度。 このあたりがうまくいっている状態、入れ替わり立ち替わりでメンター/メンティが都度入れ替わるようなのが、おそらく筆者の方の言う「チームマスタリーを得ている」というような状態かと思った次第。

上記が正しいのだとすれば、「それじゃあ社員は業務知識と同じように、先に『メンタリング』を全員が学んで置いたほうがいいよな」という考えに行き当たるのは妥当と思う。 「メンターしたことある人をメンタリングするのは、プロトコル自体は理解してくれているから楽な部分あるよな」みたいなことが起こると思える。自身が知識として知っていることは指摘されても「あ、そうですね気をつけないと」と軽くすませることができる。これは『メンタリング』というプロトコル形式に基づいたやりとりであると理解しているからだ。 みんながメンター、みんながメンティ。いいねこれ。

さらに行き着くとこうなる。「本当に必要としているのは、よいメンターじゃなくてよいメンティなのではなかろうか」ということ。ほとんどのメンタリング書籍において「よいメンターを育てる方法」が書いてあるだけであり、逆に「メンティは常に無能」からスタートするからである。そして「メンターが確保せねばならぬ傾聴に費やす時間的コストは馬鹿にならない」と考える。そもそも傾聴の時間的コストは「メンティの成熟度」に依存する部分が大きいと思う。なぜか。「メンティがメンタリングを知らないから」である。すなわち「メンティ候補はメンタリングされる前に『メンタリングとはなにか』『よいメンティとはなにか』を自覚しておくと話が早いのではなかろうか」と考えた。

そしてちょっとだけ否定。この「よいメンティ」手法は形骸化する可能性があり、「よいメンティを演じなければならぬ」という問題が発生しそうだということ。「傾聴に費やす時間的コストは馬鹿にならない」と書いたが、馬鹿にならぬことに付き合ってくれたからこそメンタリングの大前提となる「メンティとメンターの信頼関係が構築できるのかもしれない」とも考えた。

なにはともあれ さよなら「コミュニケーション能力」 こんにちは「メンタリング」