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そもさんせっぱちょーちょーはっし

大学当時の卒論の序文

……それは、何と言えばいいのだろうか。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読了した時に襲う、あの強烈な、逃げ場のない袋小路をどう言葉を尽くせば人に伝えられるだろうか。
助長を極めた会話文にこれでもかと散乱する片仮名オノマトペが、まず網膜をちかちかさせる一段階。網膜から認識された文字は困惑した脳内で、次から次へと「音声」に変化していくのであるが、「文字」が印刷された「紙ッ束」の中から、聞こえるはずのない「音声」が聞こえれば、「一足お先に」で新東が襲われた、あるはずのない右脚の痛みのように「イヒヒヒヒヒ」が何故か鼓膜をちりちり振動させるのである。それが、再び脳にフィードバックされれば文章としての意味を形成し、端から描き出される荒唐無稽な作品世界に視・聴・触・味・嗅の五感全てが刺激されるのである。深閑とした地下室の壁から染み出た、微かに(しかしながら確かに!)聞こえるあの叫声は、刺激の集約された脳髄の末路である。
長編一冊読み終えたあとの爽快感などは皆無であり、目の前にある現実が「全てが嘘」に帰っていくような救いの無さがたかだか一六〇〇枚から、科学的哲学的風俗的な一六〇〇枚、しかし全てに「モドキ」とつくような一六〇〇枚から放たれるのである。
夢野久作は全身全霊をこの作品に投じた。「これを書くために生きてきた」と言った本人の正直な感想が、本作『ドグラ・マグラ』から香りたつ様々な夢野作品のエッセンスの証明である。例えば、「キチガイ地獄」の「桐」。一人称視点と三人称一人称視点との違いはあるが、ラストに散る「桐」が、「キチガイ地獄」と言う物語を何事も無かったかのように、「無」に帰しているのだ。由良君美が「自然状態と脳髄地獄」の中で「桐」が散る様子を、「『虚無』の無音のビート」と言ったのは的を射た表現である。その「桐」は『ドグラ・マグラ』の中でも、一枚一枚散りながら、文学馬鹿読者の背後でせせら笑っている夢野久作の顔になるのだ。
「押絵の奇蹟」ではお互いに愛する人の容姿を自分の娘、息子に遺伝させるという物理的な問題を、胎教と言う精神的な問題で超越させることを試みている。これは『ドグラ・マグラ』の中では、血として受け継がれていく異常心理として描かれながらも、その異常心理の血統を絶やすことなく、循環させようとしたのである。
そんな作品を前にして論文風情がどれだけの力を持つか、正直不安がよぎる。たくさんの思想家がこの作品を独自に解析していったが、全てがそれぞれの見解、視野の範疇に過ぎない。作家であり医師でもあるなだいなだが、それぞれの『ドグラ・マグラ』解釈に対して、「まるで、ひとつひとつの解釈が、解釈者の内面世界を映し出す鏡のようなのである」と言ったのは、論文が『ドグラ・マグラ』、もしくは作家夢野久作に対して、無力で脆弱である証明であろう。解答は『ドグラ・マグラ』という名の「鏡」の先にあるのだが、それを透過させることを夢野久作は許さなかったのである。
しかし、幸いなことに夢野久作は『ドグラ・マグラ』の中に沢山のヒントを隠した。作品中「絶対探偵小説」と、彼は正木敬之の口を借りて謳った。これがこの作品における絶対的な手がかりとなるのである。探偵小説である以上、謎は解かれなくてはならない。そしてその「絶対探偵小説」を解釈しようとする人間は、様々な肩書きを棄て一人の「絶対探偵」にならなくてはならないのである。
探偵に最も必要な資質とは何か?
それは犯人と同化することを許す客観的な視点を持つことである。
一探偵となった僕は犯人「夢野久作」と同化して『ドグラ・マグラ』という鏡を裏側から覗く。その時に何が見えるかはお楽しみである。