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そもさんせっぱちょーちょーはっし

ブルースを加速させていく、二枚舌のポジティプ

「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱について」よりも、
「『学習性無力感』の解消のためにノーマルシーバイアス的加担者へと態度を変容することについて」の方が
大事な問題。前者は後者により発生していると思える。
これを真島昌利は『ブルースは加速していく』と表現したのではないか。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: 「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱につい ...

といったポストを本日の昼過ぎに投じたわけである。
そのポストの数十分くらい前だろうか、こういったポストも投じた。

やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんないよな。
みんなで頭使ってそういう事態に至る前に止めないと。
グルーポンおせちも戦争も同じ。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらん ...

考え出したのは件のおせち事件からである。
以下のまとめに詳しい。
Togetter - 「新春おせちテロ?グルーポンで買った悲劇の1万円おせちはこうして作られた」

そして気になっていることはこれだ。『何故こういった場合に制止者が不在であることが多いのか』ということである。「どう考えても無理、どう考えても不可能、計画着手の時点ですでに破綻している」という状況にも関わらず、なぜ前に進もうとする事例は絶たないのだろうか、ということである。

勇気ある撤退は表にでてこない

そうなのだ。そもそも撤退はなかなかニュースにはならないのである。「挑戦して失敗する」ことはわかりやすい。が「挑戦を先送りにして、のちに成功する」ことは、結果「(先送りしたのちの)挑戦で成功する」ことと同義とされる。『プロジェクトX』ぐらい掘り下げてくれる人がいて初めて話題になることである。

「もう、やめようよ」は後ろ向きである、と捉えられがちである

松鶴家千代若・千代菊 - Wikipediaの一世を風靡した名文句であるが、これを嫌う人が世の中には多い。主に根性論者であったり、ボブ・マーリィに「中途半端」にかぶれたか、ただの馬鹿かどれかである。見積もりの甘さが露呈し、自らに及ぶ責任の一切を受け止められないが故に、人は「なにもなければいいな」「多分どうにかなるだろう」と進んでしまうのである。行くも地獄、戻るも地獄。どちらにしろ地獄であるが、算段が立つ地獄の方がまだましである。もうこれ以上は無理だ、と思えることでも「やめられない理由がある」人は、「取り返せる権力を持っている」人でもある。そうだ、安い労力(人件費)で補えばいいと思っている人もいるってことだ。気をつけよう。

慣性の法則は物理的な話のみでない(もしくは群衆心理にも物理学は適用される)

人はルーティンが得意なのである。悩まずにある限界までやり続けることを楽だと考える生物である。これが群衆になると付和雷同さに更なる拍車をかける。まさに「加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんない」状態になる。誰かが止めてくれるかもしれないのを、心のどこかで考えながら。けれど責任の所在が明確になってしまうため、自らはそのことを決して口にしない。

まとめ

まず、人は「正しいことをしたい」という気持ちを少なからず持っている。これは真実だ。しかしその実現への労力を鑑みた場合に大抵挫折をする。そこで二者に別れる。最初に挙げた『学習性無力感』のポストを少しいじって説明したい。

  1. A.「『学習性無力感』から鬱になる」=責任を全て一人で背負う傾向のある真面目な人
  2. B.「『学習性無力感』そのもの、もしくは『学習性無力感』に対峙した際に起こりうる鬱状態、を察知して事前に避けようとする人」=労力的に楽な方へ進む傾向があるため、多かれ少なかれ結果間違った選択へと導く加担者(トロッコを加速させる人)となる

僕のポストは「Aの人が止めようとしているトロッコを加速させているのは、実はBの人なのだ」ということを言いたかったのである。思うに、例えばブラック企業において言えば、一番の敵は経営者なのではなくて、同僚か直属の上司だったりするってこと。皆で立ち止まって考える必要がある場合、皆で立ち止まって考えないと足の引っ張り合いにしかならない。「御国のため」「会社のため」と謳うのならば、徹底して撤退することも必要だと言う、至極まともで今更な話。

『ブレンダに相談してみるわ』の意味を考える

映画『バグダッド・カフェ』を視た。僕が視たのは完全版で、短いほうは視たことはないので、まあそういった感想だと思ってください。このタイトルを何故に選んだかと言えば、甲本ヒロト真島昌利が好きな映画に挙げていたから。で、見終わって、「確かに好きそうだな」と納得した。ヒロトやマーシーにある、ともすれば「偽善的」と呼ばれかねない純粋さを主役であるジャスミンは体現していたから。これにつきる。

店主であるブレンダに断りもなしに、ジャスミンは掃除を始める。きっかけは店主ブレンダが持ち込んだ掃除用具が片付けられていなかったから、という単純な理由である。客であるなしは関係なく、あったからやった、やりたいからやってみた、という純粋さがジャスミンには見えた。それは献身的でありながら、うざい。店主ブレンダにしてみたらおせっかいがすぎるってもんだ。一種の縄張り荒らしで越権行為の当てこすりだ。「悪かったわね、汚い店で」ということになって、常識ある社会人としては、やってはならない無粋な行為だ。こういう経験誰でもあるんじゃないか。よかれと思ってやった、もしくはそこまでの計算を入れずにやった、それが誰かの逆鱗にふれちゃって傷ついて、というようなこと。メランコリー親和型性格なんて性格の分類があるらしいんだけど、それはまあ置いといて。とにかくヒロトやらマーシーが好きな映画に挙げてたってのはうなずけたってこと。

さて掲題である

ラストシーンのプロポーズである。ジャスミンはルーディのプロポーズに了承したのか、ということである。
僕が映画を視て感じたこと、映画自体の流れ、また僕個人の希望の結末としては、彼女プロポーズ断ると思うんだよね。というかそうじゃないとこの映画、成立しないと感じた。ではなぜそう感じたかは以下。

ラストシーン前にブレンダは家出していた旦那と店の入り口側で仲直りの抱擁をする

で、この抱擁の前に二人を注視している店中央に残されたジャスミンを視ることが出来る。
ジャスミンが別れた夫を思い出さないはずがない。
ジャスミンが夫を思い出したのと同じように、ブレンダ夫婦の愛を間近にみたルーディが触発されたってのは言わずもがな。

プロポーズが論理的すぎる

この映画は女性的エロスの映画である。あの太っちょおばちゃんをあれだけ美しく可愛らしく女性らしくみせる撮り方ができたのは、おそらく監督が無類の女好きで女性至上主義であるからだろうな、と僕は感じた。
で、そういう肉感的で情緒的なエロス映画にしては、ルーディのプロポーズは論理的過ぎておよそ画家らしくなかった。ジャスミンにはブレンダ夫婦の再会が頭に焼き付いていたんだし、強引にいったら揺れたかもしれなかった。突然のルーディの花を持っての来訪に戸惑いと期待が交錯してたし、

ジャスミン:紳士として? 画家として?
ルーディ:男としてさ
ジャスミン:なら、服を着るわ

っていいながらも服を着なかったんだぜ。すぐドアを開けるでも無く、服を着ようか逡巡して、それでもなお服を着ずにドアを開けたんだぜ。「男」としての入室を服を着ずに受け入れたんだぜ。これって「OKです」ってことなんだよ。でもそこまでの決意を持って部屋に招き入れた男が理論武装したプロポーズだなんて、興醒めでしょ。情熱的な女性を前にして、しゃっちょこばって冷静にさせてどうするのさ。
「君の絵をもっと描きたいんだ」という独善性丸出しの芸術家肌的なプロポーズなら、話は違っていたかもしれない。ただ、それはそれで台無しなんだけどね。

で、最後の『ブレンダに相談するわ』って台詞の真意

「『夫と仲直りした友人であり家族である女性に、長年連れ添った夫ってどういう存在なの?』って聞いてみるわね」ってことでしょ? それを聞かれたブレンダの答えを想像してみようよ。先に夫と仲直りの抱擁をしたブレンダの答えを。自ずとルーディのプロポーズの返事はわかるでしょうよ。


それにしても答えの擦り合わせみたいで無粋な文章だ。

01/17 18:44 追記
ジャスミンは帰国→元夫と離婚→カフェに戻ってきたとも考えられるか……。
それでも、あのプロポーズは無いわ。

『一つ目の国』の話をしよう

まずはこちらを。

ひとつめのくに

多数派と少数派

僕は大学時分に卒論をあのドグラ・マグラ』に選んだ。その中で「狂気」「キチガイ」というものを、どう捉えようかと悩んだ。そして文献をあさっていくうちに、一冊の本に出会った。
なだいなだの『くるいきちがい考』である。
手元に本書がなく正確な引用が出来ずに恐縮ではあるが、その中にはこういった意味の一文があったように思う。
「キチガイとは見立てられて成立するものである」と。

「常識」と「非常識」、「正常」と「異常」
「これらを明確に区別するものは無く、結局のところ、多数決でしかないのだ」というのが、当時の僕の結論だった。納得がいかない方がおられたら思い出してみてほしい。UNOで遊んだときのことを。ドローツーでもめたことを思い出せば良い。その時のあなたの立場は?
もしくはじゃんけんのかけ声であったり、誰かが方言を指摘された場面であったりでもいい。見知らぬ相手と麻雀をやる際、聞いたことも無い役をルールに盛り込まれたなんてことはなかったか?思い出してみてほしい。その時のあなたの立場は? 「それおかしーよ」という立場だったか。それともいわれる立場だったか。どちらがどちらを"オカシイ"と「見立て」たのか。そしてその「見立て」は絶対だったのか。場所が変われば逆転しうる「見立て」だったのではなかったか。時が変れば逆転しうる「見立て」だったのではなかったか。この世はとかく曖昧なものばかりなのではないか。

落語の『一つ目の国』では

見世物師が「二つ目人」として見せ物にされるという下げになる。落語だからやわらかな印象で終わっているが、ある意味残酷な結末とも言える。しかしこれは当然な結末だとも思える。話の筋を知っている僕たちからすると、「一つ目人」も「二つ目人」も登場人物として認識できている。しかし作中の「一つ目人」は、「二つ目人」のことなど知らない。珍しがって見世物にするのも当然である。もしかしたら最終的には「二つ目人」である見世物師は殺されたかもしれない。

寒気がしただろうか。ならばもう一度考えてみてほしい。
差別、貧困、戦争のことを。その中で僕たちはどの立ち位置にいたか。
僕たちは果たしてこの物語で言う二つの立場を認識していた「観客」の立場であったといえるか。もしかしたら無知故に残酷な行いを、狭い範囲を規定した『常識』を後ろ盾に執行してきてはいないか。僕たちは「二つ目人」はおろか「二つ目人」のことがいるなんて考えもしなかった「一つ目人」の側だったのではないか?
よく考えろ。
殺して当然の命なんて無い。
馬鹿にして当然の人なんていない。
父と母と子が同じ屋根の下で暮らせないなんて、そんなことがあってたまるか。

職務質問のゆるさを指摘することが権力濫用のトリガーとなりうるか。

Scribdを見て、ブクマした。コメントは

ngsw 十徳ナイフ系所持で職務質問→荷物検査→軽犯罪法違反(銃刀法違反でなく)という流れには効果的

というもの。
これにid:IshidaTsuyoshiさんから

IshidaTsuyoshi (前半部は別IDへのコールでしたので省略) / ↑id:ngsw さん ちっちゃいナイフの件はともかく、嫌疑アリになってから出すと危険ですよ。

というコメントを頂く。
でも僕は十分な嫌疑がない場合の、場当たり的ノルマ稼ぎ的な職務質問に対して、すなわちまだ事件なんて起きていないにも関わらず、犯人予備軍として接してくる警察官への抵抗として、という趣旨で先の自分のコメントに以下の追記をした。

ngsw 嫌疑を明らかにしない不当な職務質問から『事件』が生まれてしまうことへの対策だと思ってます。

そして、その返答として下記をわざわざ僕のブクマをブクマしてコメントしてくださった。

IshidaTsuyoshi (id:)ngswさん 不当な職務質問は排除すべく権力を監視することは必要だと、石田は理解しています。嫌疑がかかった後に職務質問を逃れようとするのは、かえって権力の濫用を誘うかもしれませんよ。

僕はid:IshidaTsuyoshiさんと見据えている場所が違うのであって、感じていることは同じなのだろうと思った。
そしてid:IshidaTsuyoshiさんは優しさを持って、僕に警句を投げかけて(警句は投げかけるものでいい?)くれているのだろうと感じた。
「嫌疑」の定義になってくると日が暮れそうではある。
僕は職務質問に関しては、

  • 「僕がどの事件に関与している可能性があるか」
  • 「僕がどの事件と関与する可能性があるか」

を警察官に問い、嫌疑を示してもらうようにしている。大概の場合は明確な嫌疑など示してもらえず、「いえいえ皆さん協力してくださいますよ」というような話になる。だから「任意ですよね?」と断るようにしている。この前提があって「不当な職務質問から『事件』が生まれてしまうことへの対策」と記した。
しかしid:IshidaTsuyoshiさんは別の角度、僕のような反権力的な人間が存在/行動することで、警察という国家権力がより横暴に権力を濫用するトリガーとなる、と言ったのである(たぶん)。考え得るのは以下。

  • 警察官職務執行法,(略)警職法の改訂(警察権力の拡大)
  • 十分な嫌疑がない状態で胸の内から何かを取り出そうとすること(件のブクマで言えば『警察官の方へ』を取り込んだ携帯電話)で、警察官が「(攻撃されると)危機を感じた」として、肉体的な拘束を余儀なくされる。誤射射殺という可能性も今の時代ないではない。警察も人間である(それでもまあないだろう/本当にみんな拳銃持ってるの?)。

という点であろうか。この点は他の方にも、こんな可能性もあるよ/いやいやそりゃ言い過ぎ、とご指摘頂きたい。

ではまとめます(といいつつ問題を増やします)

  • 「嫌疑」の定義は警察主観で良いのか。
  • 納得のいく「嫌疑」を示して頂ければ、職務質問に応じる準備はある(←これは市民主観/個人主観とは言えないか?)
  • 件の『警察官の方へ』は携帯には取り込まない(これは最初からそのつもりでブクマした)。
  • id:IshidaTsuyoshiさんの思いやりは感じた。けれども、それでも僕は不十分な「嫌疑」に関しては一切従うことをよしとしないことをここにお伝えしたい。権力の濫用を誘ったとしても、濫用が許されるわけではない。これはレイプ事件が起こると立ちのぼる話題と似ている。

障害者は養わなければならないか?

ただ、障害者だからって投げやりになって、
クズみたいな人生は送ってほしくない。
「心の障害者」にはなってほしくない。

ニートの妹が障害者にジョブチェンジした。歩けないらしい。

という一文に激しく憤りを感じ、

"ただ、障害者だからって投げやりになって、クズみたいな人生は送ってほしくない。「心の障害者」にはなってほしくない" / 僕の姉が先天性の障害者だったから言うけど、あなたのこの一文完全な差別発言だよ。

http://b.hatena.ne.jp/ngsw/20081231#bookmark-11484842

といったコメントを投じた。そして元増田の一文『ただ、障害者だからって投げやりになって、クズみたいな人生は送ってほしくない。「心の障害者」にはなってほしくない』が、

不況だの派遣切りだのと、いろいろ問題があるが、
やっぱり「働ける」って大事だね。
「健常者」だって働く場所に困るこのご時世、
障害者なんてお呼びじゃないだろう。

ニートの妹が障害者にジョブチェンジした。歩けないらしい。

といった問題の根源であるとも感じた。「健常者から障害者になったから投げやりになる」「健常者から障害者になっても心の障害者にはなってほしくない」という意見は僕にもわからないでもない。わからないでもないが、僕は「"障害者"を見下している」という自覚の元に「わからないでもない」とそう感じている。意識的な差別をする時にのみ、この「わからないでもない」は出てくる。だが、元増田は無自覚に「障害者」という言葉そのものをネガティブ然として使用している。まるで「障害者」が「バカ」や「アホ」「とんま」の代替のように。


「障害者」はラベルそのものであって、「健常者」と並列にあるものだ。それは「優性遺伝」と「劣性遺伝」だったり、「進化」と「退化」と同じ二組の言葉に過ぎない。もしもあなたが『「劣性遺伝」や「退化」という言葉は、「優性遺伝」や「進化」よりもネガティブな意味を持つ単語だろ?』と思われたなら、この話は理解しづらいかもしれない。また、それは文脈ごとに広義/狭義と変化する言葉の定義のあやふやさの証明でもある。


話を戻すと、元増田のような人間が「障害者なんてお呼びじゃない」環境を生み続けているんだろうと感じた。家族が勝手に責任を背負ってしまい、障害を持った人々を座敷牢的に自宅に閉じこめてしまうのだ。障害を持っていることは罪ではない。隠すこともない。そして障害は障害を持ったからと、衣食住が保証される(自然権的な話とは、また別の問題として)甘やかされるべき免罪符でもない。


また話が横道にずれるが、元増田に何か届けばと思い記す。
僕が小学生だったころ、幼い頃小児マヒ(おそらく)に罹った同級生がいた。彼の手足は見た目でもう障害があることがわかる。そんな彼に事件が起きた。小学三年の初夏。プールの季節を前に彼は先生に呼ばれ、そして泣いた。どうしたのか聞いてみると、「僕には障害があるから今年から体育のプールができなくなった」ということだった。初めてのプールの授業を彼は体操着に着替えてプールサイドで見学した。
僕は父に「(彼は)水泳教室にも通ってるんだよ。泳げるのみんな知っているんだよ。おかしいね」と話した。父は早速翌日学校にやってきて校長担任を目の前にこういった。「手足に障害を持つ彼こそ、一番はじめに水泳を学ぶべきではないのか」と。「もし川でおぼれて誰も助けが来なかったときのために、ここにいる誰よりも先に水泳を学ぶべきではないのか」と。彼はその次の授業から、去年と同じようにプールの授業に参加することができた。障害者を実の娘に持った父の、こういう点は評価できるところだ。


元増田は障害を持った妹さんが、なにができてなにができないのか話し合うべきだ。そして妹さんが現在不可能だと思っていることを不可能なまま終わらせないことだ。働く働かないは本人の意志だろう。社会の問題であるなら闘うべきであり、妹さん自身に闘わせるべきだ。そういった団体はいくつもあり、そういう政党は以前からあるのだ。おそらく元増田は知らなかったか、全くの他人事であったのだろうが。また、もしも妹さんが働かないことを選択したからといって、元増田が養う必要もないのだ。障害者がどうこう、足のあるなしがどうこうではない問題だ。


最後に。
あなたの婚期遠のく云々を、妹さんを出汁にしてはいけない。たとえそれが冗談であったとしても。

M-1決勝の一組目は595点(85点x7人)に統一すべき

これならば一組目より何点分良かった、悪かった、という基準で点数をつけることになるから。
もちろんトップバッター595点による優勝もあり得るわけ。
点数を絶対評価に基づけたいのなら、100点x7人の700点満点にしている意味がねーわ。


ちなみに過去一度(たしか)だけ審査員として登場した立川談志は、
こういう採点を意図的に行っていた。
80・70・50の3段階しかねーが、おもしろい・ふつう・つまんないで分けたとして、
当時トップバッターのハリガネロックに70点をつけているのだから、
立川談志の点数の「付け方」は信頼できると思う。


ちなみに595点というのはある程度の見栄えを考慮したものなので、
べつに490点でもかまわない。

有用な情報にアクセスする権利がほしい

 漢字だいすきな サヨクなんて いらないのですよ。社会的障害である漢字を たいせつに おもうっていうのは、車イスで 利用できない公共機関をたいせつに感じるのと おんなじことですからね。「おれは 漢字が すきなんだ」で議論を おわらせようという ひとがいますが、アクセス権の問題ですよ。いかに共存するのかっていう問題ですよ。

ひらがな あなーきずむに よーこそ。 - hituziのブログじゃがー

確かに引用元の筆者の言うとおり、情報にアクセスできるか否かは、過去においても、また容易に多々な情報にアクセスできる現代においてはことさら重要な問題である。

英語独学関連のエントリがホッテントリ化するというのは、英語圏から発せられる情報へのアクセス権をはてブユーザーが欲しているからに他ならない。情報にアクセスする権利は、現代においては誰もが当然のごとく持ちあわせる権利、いわゆる自然権でなければならない、と僕はこのエントリを読んで考えさせられた。

活版印刷の発明は、民衆が情報へアクセスすることを助けた。インターネット、WWWの発明もまたしかりである。こう考えると情報へのアクセス権は、現代社会において徐々に自然権として成立しつつあるようだ。


しかし筆者のエントリを読み、それは「文字を読める」ことが前提であることに今更ながら気がついた。そして、字の読めない人と字が見えない(画数が多いとつぶれて判読つかない)人のことを考えて文章を書いたことなどなかったな、と思い返した。

「文字を書いているのだから当然だ」と考えることもできるが、僕がしたかったことは文字を書き綴ることでなく、思いを伝えることなのである。伝わればメディアはなんだってよかったのだ。

僕の思いが伝わる伝わらない云々は、社会的に見て瑣末なことだからどうでもよいのだが、公文書等になると別である。誰もがその情報にアクセスすることはもちろん、その情報を理解するところまで、自治体は考え助けなくてはならない。大きな文字、かなの多用、分かち書き等々を利用して。
また、文字に限らず音声であったりしてもよい。筆者は文字表記について語っているが、実は文字表記のみにこだわっているようには見えず「様々な手段を用意し誰しもが直接情報にアクセスできること」にこだわっているように見えたので付け足す。

  • 音声を利用するのは煩雑に感じるが「漢字を読むことはできない」という人もいる
  • 情報アクセス権におけるユニバーサルデザイン化、そのはじめの一歩が件の文字表記である

という点を理解した上で。


以上をふまえての感想

さて、
僕の思いを文字として表現するとするならば、僕の文体や表記上の癖等を崩し、(僕にとっては)不要なかなを交えてまで伝えたいか伝えたくないか云々も、やはり社会的には瑣末な問題ではある。だが先述の「伝わればメディアはなんだってよかった」と同様、実は僕にとっては一大事である、ということは知っておいてほしい。「情報弱者のため」を「自分の好き」より優先できるほど僕は優しさを持ち合わせてはいない。漢字は有用な情報伝達のツール/メディアであり、しかしそこにアクセスできない人がいることを筆者のエントリで知った上でもそう思う。

現在の日本において、誰しもがアクセスすべき/されるべき情報が、漢字という有用なツールなしで生まれるとはとうてい考えられないのだ。読める人間にとっては、漢字で理解できる文章にいちいちかな表記を交えられた時点で漢字の有用性は大いに崩れ、理解を妨げられることが想像できる。結果情報の質は下がる。万人にアクセスされてしかるべき情報の質を保つためには、漢字というツールは必要であり、漢字理解者に余計なふりがなは不要である、と思う。

 「だれをも支配しない。だれにも支配されない。」それが アナーキズムというものでしょう。わたしは、そう おもっています。

と筆者は考えているのならば、

漢字を へらすこと、よみがなを そえること、わかちがきすること、あるいは、ひらがなだけの文章を 提供すること

と漢字利用者の「情報を正確に素早く理解すること」を含めた情報アクセス権を阻害させることより、巷にあふれる漢字テキストにあなた自身が率先して大いにかなをふっていくべきである。あなたにはその才能があると思う。個々人の力では巷に存在するすべてのテキストにかなを振るなんて現実的でないのは承知だ。だとするならばのほほんと「あなーきずむ」などといってはいけない。政治を即刻介入させるべき手段を模索するべきである。「あなーきずむ」は筆者の皮肉であると信じたい。
漢字は現実有用であり、そのため漢字にアクセス権を持たない者が不利益を生じているのであるから、漢字を減らす方向に進むのは、質が低下している無用な情報へのアクセス権の濫造生成であるとも思え、このエントリを書いた。「情報弱者」へ最良の情報アクセス権を望む筆者へこめて。

筆者コメント/関連エントリを読んでの追記

僕の関連エントリに対しての読みが浅く、「以上をふまえての感想」で先述した内容は杞憂にすぎないことがわかった。筆者にあるのは個人から漢字を取り上げるものでなく、ふりがなを追記していく「たし算の思想」であった。だとするならば、ふりがなをつけるのは個々人でなくてもよい、ということである。筆者にあげていただいた「ウェブページで ふりがなを表示する(自動)」などは全く知らず、こういった取り組みがすでにあることを知り感心してしまった(その上で僕自身の熟読が足りなかったことを恥ずかしく思いもした)。
http://addruby.com/が元のレイアウトを崩さない形でもっとも見やすいと感じた。しかし筆者が指摘するように、固有名詞になると精度が落ちる。精度が落ちる、というよりは、これこそが固有名詞に潜んでいる問題に他ならないのだろう。それが顕在化されただけに過ぎないのだな、と感じた。「ああ、そうか。固有名詞にかなをふるだけで、現存のサービスと併用すれば先述した杞憂は完全に解消できるのだ」と気付いた。やはり WWW は広大であり偉大である。
問題は WWW はそれでもよいが、現実世界の公共のサービスとして、「ウェブページで ふりがなを表示する(自動)」に類似したサービスが存在しているかどうかにあるようだ。思い返してみるとそのようなサービスが実施されているのかどうか僕は知らない。浮かぶのは図書館にある朗読サービスくらいのものだ。それでも朗読テープの数/種類には限りもあるようだし、識字者が図書館で好みの本を借りるほどの十分な情報アクセス権が配慮されているようには思えない。
ここまで考えて、

みほ「それでも いいの!」
「じゃんけんのユニバーサルデザイン」

といえる配慮がまだまだ全然足りないのだと正直実感した。伝えなくてはならない責任をどう果たすのか突き詰めていけば、この(文字)情報で足りうるのか、という疑問はあって当然のことだと思う。「常識」だと思っていることが思いの外狭いエリアしか規定していなかった「偏見」であったことはよくある話だ。
世界には様々な事情を持った人がいるということを、僕は慮って生活してきたつもりだが、それもまた「つもり」でしかなかったようだ。まだまだ想像力が足りなかった。「想像力、それは愛だ」と歌ったロックバンドもいた。僕には「愛」が足りなかったのだなあ。筆者の引用元エントリ/いただいたコメントにより情報アクセス権だけでなく、さまざまなことを再考するきっかけとなったのは幸運だ。引用元筆者に感謝したい。