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そもさんせっぱちょーちょーはっし

大学当時の卒論の序文

……それは、何と言えばいいのだろうか。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読了した時に襲う、あの強烈な、逃げ場のない袋小路をどう言葉を尽くせば人に伝えられるだろうか。
助長を極めた会話文にこれでもかと散乱する片仮名オノマトペが、まず網膜をちかちかさせる一段階。網膜から認識された文字は困惑した脳内で、次から次へと「音声」に変化していくのであるが、「文字」が印刷された「紙ッ束」の中から、聞こえるはずのない「音声」が聞こえれば、「一足お先に」で新東が襲われた、あるはずのない右脚の痛みのように「イヒヒヒヒヒ」が何故か鼓膜をちりちり振動させるのである。それが、再び脳にフィードバックされれば文章としての意味を形成し、端から描き出される荒唐無稽な作品世界に視・聴・触・味・嗅の五感全てが刺激されるのである。深閑とした地下室の壁から染み出た、微かに(しかしながら確かに!)聞こえるあの叫声は、刺激の集約された脳髄の末路である。
長編一冊読み終えたあとの爽快感などは皆無であり、目の前にある現実が「全てが嘘」に帰っていくような救いの無さがたかだか一六〇〇枚から、科学的哲学的風俗的な一六〇〇枚、しかし全てに「モドキ」とつくような一六〇〇枚から放たれるのである。
夢野久作は全身全霊をこの作品に投じた。「これを書くために生きてきた」と言った本人の正直な感想が、本作『ドグラ・マグラ』から香りたつ様々な夢野作品のエッセンスの証明である。例えば、「キチガイ地獄」の「桐」。一人称視点と三人称一人称視点との違いはあるが、ラストに散る「桐」が、「キチガイ地獄」と言う物語を何事も無かったかのように、「無」に帰しているのだ。由良君美が「自然状態と脳髄地獄」の中で「桐」が散る様子を、「『虚無』の無音のビート」と言ったのは的を射た表現である。その「桐」は『ドグラ・マグラ』の中でも、一枚一枚散りながら、文学馬鹿読者の背後でせせら笑っている夢野久作の顔になるのだ。
「押絵の奇蹟」ではお互いに愛する人の容姿を自分の娘、息子に遺伝させるという物理的な問題を、胎教と言う精神的な問題で超越させることを試みている。これは『ドグラ・マグラ』の中では、血として受け継がれていく異常心理として描かれながらも、その異常心理の血統を絶やすことなく、循環させようとしたのである。
そんな作品を前にして論文風情がどれだけの力を持つか、正直不安がよぎる。たくさんの思想家がこの作品を独自に解析していったが、全てがそれぞれの見解、視野の範疇に過ぎない。作家であり医師でもあるなだいなだが、それぞれの『ドグラ・マグラ』解釈に対して、「まるで、ひとつひとつの解釈が、解釈者の内面世界を映し出す鏡のようなのである」と言ったのは、論文が『ドグラ・マグラ』、もしくは作家夢野久作に対して、無力で脆弱である証明であろう。解答は『ドグラ・マグラ』という名の「鏡」の先にあるのだが、それを透過させることを夢野久作は許さなかったのである。
しかし、幸いなことに夢野久作は『ドグラ・マグラ』の中に沢山のヒントを隠した。作品中「絶対探偵小説」と、彼は正木敬之の口を借りて謳った。これがこの作品における絶対的な手がかりとなるのである。探偵小説である以上、謎は解かれなくてはならない。そしてその「絶対探偵小説」を解釈しようとする人間は、様々な肩書きを棄て一人の「絶対探偵」にならなくてはならないのである。
探偵に最も必要な資質とは何か?
それは犯人と同化することを許す客観的な視点を持つことである。
一探偵となった僕は犯人「夢野久作」と同化して『ドグラ・マグラ』という鏡を裏側から覗く。その時に何が見えるかはお楽しみである。

探偵開業にうってつけの日

自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。
やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。

発端

その昔僕にも信頼できる上司というものがいました。
その方が退職されてしばらくした後に一緒に食事をする機会がありました。
その時に頂いた名刺には「〇〇探偵事務所」という文字が。
(なにこれ厨二まじヤバイ、「公安番号」まで書いてあるやり過ぎ)
などと感想を持ちました。

しかし公安番号とか付与した名刺なんか作っちゃうと、
まかり間違えば詐称とかになるのでは、と思い
「これはまずくないですかー」と尋ねたところ、
「いや、だって申請したんですもん」とのこと。
申請とか誰にだよ頭おかしい電波ゆんゆん、とか思ったのは事実です。
でもよくよく聞いてみると届出を出せば探偵ってなれるんですってよ、誰でも。

というのが3〜4年くらい前の話でしょうか。
でちょっと自由な時間が最近できたので、
上記を踏まえて自分も探偵になってみようと考えた次第です。

メリット・デメリット

メリット

「おれ探偵局長ですから」とか自慢できる。以上。
ということで「自慢なんかできねえよ」とか「そもそも自慢してどうすんだ」とか思う人にはメリットがありません。
考え方を変えると、ミステリー系同人誌を発行している方々ならば、メリットはありそげな気がします。

デメリット

公安に住所氏名を渡すことになります。
また証明書番号を元に所轄警察署に照会問い合わせがあった場合、
所轄警察署は住所や登録者名を照会希望者へ躊躇なく伝えるでしょう。
つまり
「あなたが自宅で探偵業を開業した場合、あなたの住所は探偵業届出証明書にある、証明書番号経由であなたの住所氏名は開示される」
ということです。そのための制度です。
「名刺に証明書番号を刷り込まない」ということで回避出来る内容かもしれません。*1
また可能性としてですが、営業実態がなかったとしても、就業規則等にある副業禁止規定に引っかかるかもしれません。
よって本エントリ内容は自己責任でお願いいたします。

必要なこと

探偵になるためには手続きが必要です。
これは裏を返せば「手続きさえ踏めば誰にでもなれる」ということになります。
パスポートの申請と似ている部分があります。*2
ずばり言うとここに記述してあるとおりで可能です。
1-1 探偵業の届出要領 :警視庁
で必要書類を確認してから
2-a 探偵業に関する各種手続 :警視庁
2-b 申請様式一覧(探偵業) :警視庁
で様式を確認すると最短で良いと思います。

さて前提

  • 運転免許証を持っていた
  • 成人している
  • 個人申請である/自宅である(法人でない)

ということ。
法人はきちんと調べてください。

必要書類

以下を全て揃えて所轄の警察署の生活安全部へ提出*3する必要があります。
所轄の警察署は営業所の場所で決まります。
本件では「自宅で開業」という意味合いですので、
「自分の家の住所の所轄警察署」となります。
「普段よく前を通るからあそこの警察署だろう」と思っていると、
その警察署と反対側の方向に実際の所轄の警察署があったりするので気をつけてください。
僕は最初杉並警察署へ書類提出に行きましたが、
お前さんちは荻窪警察署の所轄だぐへへ、と言われました。
警察官に聞いて調べましょう。

印刷して記述するのみ/『印刷サイズはA4』の縛りがありそうです。
  1. 探偵業開始届出書(ネットプリントの印刷代)
  2. 誓約書(ネットプリントの印刷代)
  3. 履歴書(ネットプリントの印刷代+写真代)

これらは申請様式一覧(探偵業) :警視庁にある記載例そのまま書けばいいと思います。
しかし日付まわりは記述しないでください。
これは提出時に差し戻しがあった場合に、
書き直す必要があったりめんどいので。
プリンタが無い方はネットプリントが便利です(もう一度言いますがA4で)。

特記

  • 履歴書には写真が必要です。
  • 探偵業開始届出書には名称記述が可能です。公序良俗に反しない限り好きな名前が付けられます。*4
住民票のある区役所/発行機で可能
  1. 住民票(300円/1通)

僕は杉並区民であり、自動交付機用カードというものを持っているので、
荻窪の荻窪タウンセブンで発行できたりします。便利になったもんです。
市区町村により住基台帳ネットワーク参加不参加はあるかと思います。

法務局で取得
  1. 登記されていないことの証明書(300円/1通)

出張所とかもあるのですが「この証明書は出張所で発行できないもの」と伺いました。
僕は東京法務局へ行きました
登記されていないことの証明書の説明を確認ください。
郵送も可能だそうです。

本籍地*5
  1. 身分証明書(300円/1通)

これを知らないと一日無駄にしてハマります。
『身分証明書』って免許証で足りると思っていたのですが、
実はこれは法務局の発行する、
『登記されていないことの証明書』の本籍地バージョンみたいな意味合いがあるようです。

証明書を取得し、申請書類の日付以外の記述を終え、所轄の警察署に提出します

  1. 手数料3600円/現金です/印紙不可
警察署申請時の注意事項

アポ必須である
探偵業申請受付担当の方が、所轄警察署に一人しかいない場合があります。
その方が有休なり別件で外に出払っている場合には、
「帰ってくるまで待っていてください」とか、
「今日はお休みですのでまた今度」と無駄足となります。
これは「トラックナンバー1ってやばくね」っていう気持ちもありますが、
まあしょうがないかなーというところ。
事前に「探偵業申請したいんですけど、いつ頃ならおられますかー」
と電話しておくのがいいかと思います。
で、この無駄足の可能性を考慮して「申請書類の日付は空けておきましょう」ということなのです。
不安であれば、この際に必要書類等の確認をしていただくのもいいかと思います。

「大家さんの許可はとっていますか?」という質問
僕の場合個人ですので自宅でやることになり、
そこは賃貸ですので大家さんとの契約関係の問題が生じます。
特約事項などでは「居住目的以外利用しない(商売をしない)」みたいなのがあったりするかと思います。
でこのあたりを鑑みて警察の方は、
「大家さんの許可を取っていただく必要があります」と言ってきます。
理由は

  1. 大家さんの許可をとらない結果問題が起きると、賃貸契約解除→引越しなど住所変更が発生する可能性がある
  2. 引越しが発生すると営業所の変更が必要となる
  3. 証明書番号は変更届ごとに変更されます(つまり名刺に印刷していた場合にその番号が変わる、ということ)

というのが気遣いの大きな理由です。が、これは大きなお世話である、とも言えます。
瑣末な話をすると間接的な民事介入とも言えるでしょう。
「大家さんに許可を取る気は無く、書類が揃っているのでこのまま申請します」
という態度で望むと「まあ、それでは」となります。
決して「大家さんの許可がないと開業できない」という意味ではありません。
そういう説明をする警察官がいるとすればそれは問題です。

最後の質問
探偵業を開業するにあたり、
警察の方からYes/Noでの質問を5問くらいされます。
そちらに答えていただくことで申請手続きは終りになるかと思います。
このあたりは関連する法律/もしくはその概要に目を通していただければいいかと思います。

総費用

目録 価格
申請費用 3600円
身分証明書 300円
住民票 300円
登記されていないことの証明書 300円
ネットプリント x 3 100円弱、切り上げ100円で計算
履歴書の写真 1回分 600円 として計算
合計 5200円

余裕を持ってもおおよそ6000円もあれば探偵になれるということです。

ということで

はっぴーでてくてぶ!!

追記 2012/06/01 22:20

f:id:ngsw:20120601221933j:plain
申請を終えると一週間くらいしたのちに所轄の警察署から
「取りに来てくださいねー」って電話もらえるので受け取りに行く。
写真は無印良品アクリルフレーム*6に収納した物。

*1:しかし面白みがありません

*2:そうでない部分は所轄警察の存在です

*3:厳密には「警察に提出」ではなくて「公安へ提出」であります。生活安全部→警察署長→公安委員会という流れ

*4:付けられるはずです

*5:本件では必要ないですが戸籍謄本/抄本をついでに取っておけばパスポート作れますよ

*6:探偵業届出証明書もまた、A4サイズなのです

牙を剥き、示したのはその対称性

たぶんまだ誰にもしていないだろう、高校生時代の話。
「倫理」というものが選択授業であったわけで、雑学好きな僕は迷うこと無く選んだわけです。
そもそも僕のイメージする「倫理の授業」って奴は哲学者や宗教家の人名がずらーっと並んだ教科書を、ただ読み進めていくだけの授業かと思って、実際そう言うの嫌いじゃないし、と思って選んだわけですが、始まってみるといい意味で期待を裏切られました。ディベートをやるぞ、という話になったのです。でディベートをやったわけで僕らは勝利したわけです。でも、それはどうでもいい話です。印象に残っているのは僕らじゃない組のディベートの話。

お題はこうでした。
できちゃった結婚はするべきか、するべきでないか』
ここで面白いものをみました。たまたま女性チームと男性チームに分かれる形となって、

  • 女性チーム すべきでない派
  • 男性チーム するべきだ派

と振り分けられました。


ディベートが始まってみるとそれぞれのチームの主張はこうでした。

  • 女性チーム 「すべきでない、なぜなら婚前交渉をしてはならないから」
  • 男性チーム 「するべきだ、なぜなら中絶なんてかわいそうだし、両親不在の子はそれだけ不幸にしてしまうから」

ディベートとして成立しなかったのを思い出します。


当時の僕はこれをぼんやりと聞いていて「なんでこんな話が行ったり来たり水平*1平行線なんだろう」と、半ばイライラしながら聞いていました。
ずーっとモヤモヤ考えていて、その授業を終えた昼休みにようやく気がついたのです。そうなんです。前提が違うんですよ。

  • 女性チームは「婚前交渉をしてはならない」=>「それ守ればできちゃった結婚なんて事象は起こらないんだからだめぜったい!!」
  • 男性チームは「子供ができちゃった」=>「結婚するか、片親で育てるか、中絶するかのうち、どれが一番人間的なんだよ!!」

ということをそれぞれの主張としているからです。


このことから得た教訓というのは、
「議論の前提が曖昧な場合、自分たちの主張に正当性を持たせるためだからといって、安易な誘導や引きこみをしてはならない」
ということでした。
今でもこの教訓は、議論をしようとする場合にとても大事なことだと考えています。さらに僕は「議論の前提」それよりも、議論を行う「人間の前提」として「誰も彼もが大概正しい」という持論をもっています。


僕は

大前提として「人はそれぞれ正しい」

ので

「ある人を批判」しようとした場合、
安易に自分のルールに持ち込んで批判展開することは、
結局のところ「自分のルール」を破り、
「批判対象のある人」と同じ「今まさに批判しているその振る舞い」を行なってしまう可能性が大

だと考えています。

*1:恥ずかしい

CROSS2012 参加して

NIFTYさん。エンジニアサポート新年会2012 CROSS 実行委員会様。
大変楽しい時間を過ごせて感謝しています。どうもありがとうございました。


前半:クラウドを使う人から見た運用と運用管理者の将来 #CROSS2012a
後半:大宴会+LT大会 #CROSS2012x


クラウドを使う人から見た運用と運用管理者の将来

桑野 章弘さん (@kuwa_tw)
安部 潤一郎さん
藤倉 和明さん (@fujya)
馬場 俊彰さん (@netmarkjp)
富田 順さん (@harutama)

「メリット・デメリットあるしクラウドサービスごとの癖があるけど、それでもやっぱりクラウド増えていくだろうし、実際増えている」というのが全体を通した意見。
そのなかで馬場さんの言われた

  • 「クラウドに対しての『変な夢』をお客さんが持っているとするならば、これは潰しておく必要がある」
  • 「インフラのプログラミング力が必要」

というのは大変わかりやすかった。
で、これはクラウドと離れてみても大事な部分なのでメモメモ。


あと全然関係ないんですが藤倉さんがTwitterのアイコンまんまの方だったのにびっくりしました。
似顔絵すげえな、って思った。


クラウドに関して言えば「うちみたいな(もしくはうちのお客さんのような)中小企業は使うメリットあるのかなどうかな、ってことなんだなあ。

大宴会+LT大会

ピックアップして

CROSS & VOYAGE

こしばとしあき さん(@bash0C7)
めっちゃ元気でしたw
こしばさんはいつも「人生変わるから飛び込もうぜ!!」って言ってくれてる。

(ああタイトル忘れてしまいました「Love る Dev」でしたっけ?)

@papanda さん (念のためTwitter IDで)
大変酔っておられてなんか猫みたいな状態でLTされてましたねw
しかしながらそのなかでは
「エンジニアである俺達はなんのためにいるのか」
「それはSIer、Servicer違いがあるのか」
という根源的で骨のあるメッセージでした。

個人的な思いとして

ここ2〜3年でしょうか。ずっと「自社サービスの運用したいな」って思いがあって。
というのも特定サービスにびっちり張り付き、
改善を行うことで得られる知識があると思うんですね。
で知識と同時に成果を得られて、また他の誰かが「よくなったじゃーん」って言ってくれるみたいな。
その時にエンジニアとしての手応えみたようなものが初めて感じられるのかなってもやもや考えるわけです。


僕には今自信が無い。
しかしなんでもやってみたら出来るだろう、という楽観視はある。
目の前に転がってきたチャンスには飛びついて行きたい。
チャンスを自ら拵える、マッチポンパーにならんといけない。
そういう2012年を。

末筆ではございますが

サントリーさん、ありがとうございました。
各スポンサー企業さん、ありがとうございました。

あー楽しかった。

差別のK点

「この差別主義者めー」 - 徒労の雑記において、

引用1
韓国人がパクリ大好きの低モラル民族というようなカジュアルな蔑視は、もう空気のようなレベルで日本社会(あるいは日本のネット社会)に根付いているらしい。

そしてカジュアルな蔑視差別については、

引用2
   1. 在特会レベルの突き抜けた連中さえ批判していればOKとは考えないでほしい。
   2. カジュアルに差別発言をしないでほしい。
   3. カジュアルな差別発言を見かけたときも「はいダメー」と言ってほしい。

と引用2の3.においては(想像するに)「(カジュアルな差別には)『はいダメー』とカジュアルに批判してほしい」と記述された。
しかし、

引用3
在特会あたりのメンバーが言っていても違和感ゼロの差別発言なのに、「最悪だ」とか「失望した」とか、そういう声はまるで見かけられなかった

という記述が同一エントリ内にみられた。僕は、引用3の記述は、引用1、引用2を警告するエントリ中にあってはならないものだと考えた。先の「韓国=パクリ大国」と同じように「在特会=差別発言をしそう」という比喩、代名詞化はカジュアルな差別をしているからだ。ちなみに僕は在特会を差別主義者だとは思っている。だが本件エントリ主の主旨に照らし合わせれば、それは言わば「事実であるとともにある種の<<カジュアルな差別>>」であるとも考えた。
例え『在特会は以前に差別発言をした連中だ』という事実があったとしても『在特会は常に差別発言をする連中だ』というのとは当然意味が違う。
そもそも事実であれば「差別」を避けられるわけではない。事実だからこそ「差別」になり得ることもある。
「人殺しの息子」というニックネームは例え事実であっても明らかな差別だろうし、「サノバビッチ」が事実でも同様の差別だと思う。
なぜ「在特会」を「差別主義者」の代名詞と使うことだけが許されるのか。そういう疑問を込めて、以下エントリへコメントを投じた。
「この差別主義者めー」完結編 - 徒労の雑記

ngsw:
先の『在特会あたりのメンバーが言っていても違和感ゼロの差別発言』という記述これ自体「カジュアルな差別」であるとは言えませんか。この点がひどく気になっています。
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20110116/p1#c1295291060

id:toroopさんからご対応いただいたコメントは以下であった。

私はそうは思いません。しかしngswさんがそう思われるのでしたら、堂々と批判してくださって結構です。
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20110116/p1#c1295342929

なのでここに記した。
『「韓国=パクリ大国」と「在特会=差別発言をしそう」という二つは同じような程度のカジュアルな差別発言である』と僕は考えている。
程度問題にしたくないが故に「カジュアルな」という前置きをして、結局のところ程度問題にしてしまったのはなんなんだろう。

追記:
id:novtanさんの

ラベルの種類にもよると思うけど、
自分の意思で自由に出たり入ったりできる集団に属することにラベルを貼るのは差別とは思わないな。
その人の意思が介在しない本質的な属性ではないから。

けっこう危険な思想かと思います。それは「『差別発言しそう』と言われたくなければ転向しろ」という発言と同じく思えます。実際問題で言えば在特会は差別主義者でしょう。だけれどもそれを以て「差別発言しそう」ということを紐付けるのは「カジュアルな差別」なんですよ。
「差別発言を◯◯の時にした」という指摘ならば良いんです。でも「しそう」というのはカジュアルな差別ですよ。前科者に対して延々と「前科者」「またやりそうだな」と罵っていいわけではないですよね。

間違ってほしくない点ですが、
僕は「韓国をパクリ大国だ」と言いたいわけでもないし、「在特会は差別主義者じゃない」と言いたいわけでもないんです。「『カジュアルな差別をしてはならない』という人が、カジュアルな差別をしていることに無自覚であること」に疑問を感じているのです。

ブルースを加速させていく、二枚舌のポジティプ

「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱について」よりも、
「『学習性無力感』の解消のためにノーマルシーバイアス的加担者へと態度を変容することについて」の方が
大事な問題。前者は後者により発生していると思える。
これを真島昌利は『ブルースは加速していく』と表現したのではないか。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: 「『学習性無力感』(電気ショックの例の奴)と鬱につい ...

といったポストを本日の昼過ぎに投じたわけである。
そのポストの数十分くらい前だろうか、こういったポストも投じた。

やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんないよな。
みんなで頭使ってそういう事態に至る前に止めないと。
グルーポンおせちも戦争も同じ。
Twitter / @生きてりゃいいじゃん。: やっぱり加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらん ...

考え出したのは件のおせち事件からである。
以下のまとめに詳しい。
Togetter - 「新春おせちテロ?グルーポンで買った悲劇の1万円おせちはこうして作られた」

そして気になっていることはこれだ。『何故こういった場合に制止者が不在であることが多いのか』ということである。「どう考えても無理、どう考えても不可能、計画着手の時点ですでに破綻している」という状況にも関わらず、なぜ前に進もうとする事例は絶たないのだろうか、ということである。

勇気ある撤退は表にでてこない

そうなのだ。そもそも撤退はなかなかニュースにはならないのである。「挑戦して失敗する」ことはわかりやすい。が「挑戦を先送りにして、のちに成功する」ことは、結果「(先送りしたのちの)挑戦で成功する」ことと同義とされる。『プロジェクトX』ぐらい掘り下げてくれる人がいて初めて話題になることである。

「もう、やめようよ」は後ろ向きである、と捉えられがちである

松鶴家千代若・千代菊 - Wikipediaの一世を風靡した名文句であるが、これを嫌う人が世の中には多い。主に根性論者であったり、ボブ・マーリィに「中途半端」にかぶれたか、ただの馬鹿かどれかである。見積もりの甘さが露呈し、自らに及ぶ責任の一切を受け止められないが故に、人は「なにもなければいいな」「多分どうにかなるだろう」と進んでしまうのである。行くも地獄、戻るも地獄。どちらにしろ地獄であるが、算段が立つ地獄の方がまだましである。もうこれ以上は無理だ、と思えることでも「やめられない理由がある」人は、「取り返せる権力を持っている」人でもある。そうだ、安い労力(人件費)で補えばいいと思っている人もいるってことだ。気をつけよう。

慣性の法則は物理的な話のみでない(もしくは群衆心理にも物理学は適用される)

人はルーティンが得意なのである。悩まずにある限界までやり続けることを楽だと考える生物である。これが群衆になると付和雷同さに更なる拍車をかける。まさに「加速しちまったトロッコを一人二人じゃ止めらんない」状態になる。誰かが止めてくれるかもしれないのを、心のどこかで考えながら。けれど責任の所在が明確になってしまうため、自らはそのことを決して口にしない。

まとめ

まず、人は「正しいことをしたい」という気持ちを少なからず持っている。これは真実だ。しかしその実現への労力を鑑みた場合に大抵挫折をする。そこで二者に別れる。最初に挙げた『学習性無力感』のポストを少しいじって説明したい。

  1. A.「『学習性無力感』から鬱になる」=責任を全て一人で背負う傾向のある真面目な人
  2. B.「『学習性無力感』そのもの、もしくは『学習性無力感』に対峙した際に起こりうる鬱状態、を察知して事前に避けようとする人」=労力的に楽な方へ進む傾向があるため、多かれ少なかれ結果間違った選択へと導く加担者(トロッコを加速させる人)となる

僕のポストは「Aの人が止めようとしているトロッコを加速させているのは、実はBの人なのだ」ということを言いたかったのである。思うに、例えばブラック企業において言えば、一番の敵は経営者なのではなくて、同僚か直属の上司だったりするってこと。皆で立ち止まって考える必要がある場合、皆で立ち止まって考えないと足の引っ張り合いにしかならない。「御国のため」「会社のため」と謳うのならば、徹底して撤退することも必要だと言う、至極まともで今更な話。

『ブレンダに相談してみるわ』の意味を考える

映画『バグダッド・カフェ』を視た。僕が視たのは完全版で、短いほうは視たことはないので、まあそういった感想だと思ってください。このタイトルを何故に選んだかと言えば、甲本ヒロト真島昌利が好きな映画に挙げていたから。で、見終わって、「確かに好きそうだな」と納得した。ヒロトやマーシーにある、ともすれば「偽善的」と呼ばれかねない純粋さを主役であるジャスミンは体現していたから。これにつきる。

店主であるブレンダに断りもなしに、ジャスミンは掃除を始める。きっかけは店主ブレンダが持ち込んだ掃除用具が片付けられていなかったから、という単純な理由である。客であるなしは関係なく、あったからやった、やりたいからやってみた、という純粋さがジャスミンには見えた。それは献身的でありながら、うざい。店主ブレンダにしてみたらおせっかいがすぎるってもんだ。一種の縄張り荒らしで越権行為の当てこすりだ。「悪かったわね、汚い店で」ということになって、常識ある社会人としては、やってはならない無粋な行為だ。こういう経験誰でもあるんじゃないか。よかれと思ってやった、もしくはそこまでの計算を入れずにやった、それが誰かの逆鱗にふれちゃって傷ついて、というようなこと。メランコリー親和型性格なんて性格の分類があるらしいんだけど、それはまあ置いといて。とにかくヒロトやらマーシーが好きな映画に挙げてたってのはうなずけたってこと。

さて掲題である

ラストシーンのプロポーズである。ジャスミンはルーディのプロポーズに了承したのか、ということである。
僕が映画を視て感じたこと、映画自体の流れ、また僕個人の希望の結末としては、彼女プロポーズ断ると思うんだよね。というかそうじゃないとこの映画、成立しないと感じた。ではなぜそう感じたかは以下。

ラストシーン前にブレンダは家出していた旦那と店の入り口側で仲直りの抱擁をする

で、この抱擁の前に二人を注視している店中央に残されたジャスミンを視ることが出来る。
ジャスミンが別れた夫を思い出さないはずがない。
ジャスミンが夫を思い出したのと同じように、ブレンダ夫婦の愛を間近にみたルーディが触発されたってのは言わずもがな。

プロポーズが論理的すぎる

この映画は女性的エロスの映画である。あの太っちょおばちゃんをあれだけ美しく可愛らしく女性らしくみせる撮り方ができたのは、おそらく監督が無類の女好きで女性至上主義であるからだろうな、と僕は感じた。
で、そういう肉感的で情緒的なエロス映画にしては、ルーディのプロポーズは論理的過ぎておよそ画家らしくなかった。ジャスミンにはブレンダ夫婦の再会が頭に焼き付いていたんだし、強引にいったら揺れたかもしれなかった。突然のルーディの花を持っての来訪に戸惑いと期待が交錯してたし、

ジャスミン:紳士として? 画家として?
ルーディ:男としてさ
ジャスミン:なら、服を着るわ

っていいながらも服を着なかったんだぜ。すぐドアを開けるでも無く、服を着ようか逡巡して、それでもなお服を着ずにドアを開けたんだぜ。「男」としての入室を服を着ずに受け入れたんだぜ。これって「OKです」ってことなんだよ。でもそこまでの決意を持って部屋に招き入れた男が理論武装したプロポーズだなんて、興醒めでしょ。情熱的な女性を前にして、しゃっちょこばって冷静にさせてどうするのさ。
「君の絵をもっと描きたいんだ」という独善性丸出しの芸術家肌的なプロポーズなら、話は違っていたかもしれない。ただ、それはそれで台無しなんだけどね。

で、最後の『ブレンダに相談するわ』って台詞の真意

「『夫と仲直りした友人であり家族である女性に、長年連れ添った夫ってどういう存在なの?』って聞いてみるわね」ってことでしょ? それを聞かれたブレンダの答えを想像してみようよ。先に夫と仲直りの抱擁をしたブレンダの答えを。自ずとルーディのプロポーズの返事はわかるでしょうよ。


それにしても答えの擦り合わせみたいで無粋な文章だ。

01/17 18:44 追記
ジャスミンは帰国→元夫と離婚→カフェに戻ってきたとも考えられるか……。
それでも、あのプロポーズは無いわ。