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そもさんせっぱちょーちょーはっし

牙を剥き、示したのはその対称性

たぶんまだ誰にもしていないだろう、高校生時代の話。
「倫理」というものが選択授業であったわけで、雑学好きな僕は迷うこと無く選んだわけです。
そもそも僕のイメージする「倫理の授業」って奴は哲学者や宗教家の人名がずらーっと並んだ教科書を、ただ読み進めていくだけの授業かと思って、実際そう言うの嫌いじゃないし、と思って選んだわけですが、始まってみるといい意味で期待を裏切られました。ディベートをやるぞ、という話になったのです。でディベートをやったわけで僕らは勝利したわけです。でも、それはどうでもいい話です。印象に残っているのは僕らじゃない組のディベートの話。

お題はこうでした。
できちゃった結婚はするべきか、するべきでないか』
ここで面白いものをみました。たまたま女性チームと男性チームに分かれる形となって、

  • 女性チーム すべきでない派
  • 男性チーム するべきだ派

と振り分けられました。


ディベートが始まってみるとそれぞれのチームの主張はこうでした。

  • 女性チーム 「すべきでない、なぜなら婚前交渉をしてはならないから」
  • 男性チーム 「するべきだ、なぜなら中絶なんてかわいそうだし、両親不在の子はそれだけ不幸にしてしまうから」

ディベートとして成立しなかったのを思い出します。


当時の僕はこれをぼんやりと聞いていて「なんでこんな話が行ったり来たり水平*1平行線なんだろう」と、半ばイライラしながら聞いていました。
ずーっとモヤモヤ考えていて、その授業を終えた昼休みにようやく気がついたのです。そうなんです。前提が違うんですよ。

  • 女性チームは「婚前交渉をしてはならない」=>「それ守ればできちゃった結婚なんて事象は起こらないんだからだめぜったい!!」
  • 男性チームは「子供ができちゃった」=>「結婚するか、片親で育てるか、中絶するかのうち、どれが一番人間的なんだよ!!」

ということをそれぞれの主張としているからです。


このことから得た教訓というのは、
「議論の前提が曖昧な場合、自分たちの主張に正当性を持たせるためだからといって、安易な誘導や引きこみをしてはならない」
ということでした。
今でもこの教訓は、議論をしようとする場合にとても大事なことだと考えています。さらに僕は「議論の前提」それよりも、議論を行う「人間の前提」として「誰も彼もが大概正しい」という持論をもっています。


僕は

大前提として「人はそれぞれ正しい」

ので

「ある人を批判」しようとした場合、
安易に自分のルールに持ち込んで批判展開することは、
結局のところ「自分のルール」を破り、
「批判対象のある人」と同じ「今まさに批判しているその振る舞い」を行なってしまう可能性が大

だと考えています。

*1:恥ずかしい